花隠れ

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ある日突然、人が姿を消すのを人間の世界では「神隠し」と言うらしい。俺がまだ若い桜の木で、この公園がうっそうとした森の姿だったころ、神隠しを見たことが何度かある。神の怒りに触れた者や、代償にと贄になった者、追われているうちに俺たちの世界に迷い込んだ者や、神に魅入られた者など状況は様々だった。神隠しをするには、よほどの木力がないと出来ないから、そうめったに起こるものではないうえに、昔と違って森や山が少なくなってきていることもあり、現代ではそもそも神隠しが出来そうな場所がない。もしも、この公園で神隠しがあったとしたら、テレビや新聞でトップニュースになるだろう。昔は戦や飢饉、自然災害などがしょっちゅう起こっていたから、人間はその日を生きるにも必死だった。そんな刹那な時代を見てきた俺から見たら、今はとても平和な時代だ。少し退屈な時もあるが、この退屈さが気に入ってもいた。  その女に気がついたのは、俺が二分咲きぐらいの状態で、花見客がちらほらやってきては、まだ満開には早いね、と囁きながら散歩をしている時だった。彼女は俺を真正面や真横、真後ろからじろじろ眺めては、手に持っていた帳面と鉛筆でササッと何かを書いていた。長いと15分、短い時はほんの数分だけやってきて、眺めては帳面に書いて立ち去る、というのを繰り返していた。暖かい日が続き、俺の桜がようやく五分咲きになった頃から、彼女は毎日のようにやってきた。ある時は色んな角度から俺の写真を撮っていた。俺は相変わらず人の姿で枝に座っていたから、彼女がこちらにカメラを向けてくると、写らないと分かってはいても、妙に楽しくなってポーズを取ったりしていた。ひたすら写真を撮った後、彼女はじっと今にも開きそうな蕾を見つめていた。腕を伸ばしてその蕾をちょん、と指でなでた。 「またね」 カメラをしまうとすたすたと歩いて行ってしまった。彼女の声を聞いたのは、それが初めてだった。夏の青空のような声だった。
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