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その日は久しぶりに雨だった。あまり雨が降ると桜は散ってしまうから、人間はこの時季の雨を嫌がるけれど、俺たちにとってはありがたい。雨は栄養になるから、木力がたまりやすい。今日みたいに優しいサラサラした雨だと、じんわり木力がたまっていくのが分かる。今日は枝に座るのをやめて、木の根元に立ち、幹を背もたれにして寄りかかってみた。人の姿で土を踏むという行為は面白い。いつも大地に根を張って立っているのとは、またちょっと違う。こんなに面積が少ない人の足というのは、何とも頼りない。二本足で立つなんて人間っぽいことをしているのが何だか面白く思えてきて、目を閉じて幹にもたれかかっていた。花のすきまから時折こぼれてくる雨が柔らかい。
ジャッ、ジャッと土を踏みしめる音がして、俺はうっすらと目を開けた。真っ白な地に、紫や黄色、赤やオレンジの花が縁取った傘をさして、彼女が歩いてくるのが見えた。ベージュの春物らしいコートから、ひらりと紺色のスカートがのぞいている。肩から下げている茶色のトートバックが雨に濡れていた。
「こんな雨の日にもやってくるなんてなあ」
思わず口から出てしまったが、どうせ聞こえやしない。どんどん近づいてきて、このままでは俺にぶつかる(実際はぶつからないが)、というところでぴたりと足を止めて、心もち傘を上に上げた。
初めて彼女の顔を正面から見た。肩を少し越した黒い髪の毛は、湿気のせいか少しくねっている。目にかかるくらいの長めの前髪の間から、奥二重の茶色がかった瞳がのぞいていた。雰囲気は柔らかいけれど芯の強さが見てとれた。彼女の視線は俺の斜め上を見ている。手を伸ばせば触れられる距離にいることに、妙に胸が騒いだ。
彼女はぐるりと俺を見渡してつぶやいた。
「この雨だったら大丈夫そう。よかった」
そして、手の届く位置に咲いている桜に手を伸ばし、咲いている花を慈しむようにひとなでした。
「明日は晴れるといいわ」
ふわりと微笑みながらつぶやいた瞬間、俺の心が音を立てた。彼女はくるりと背を向けて帰って行った。
「何なんだよ、いったい……」
胸の騒ぎがいっこうに収まらない。彼女が触れた花の部分が熱い。柔らかな声がいつまでも響いていた。
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