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「よかった、まだ全部散っていなくて。やっと出来たの。ずいぶん時間がかかっちゃったわ」
そう言って、両手に持っていた物をそっと左の手の平に乗せ、右手でそっと支えた。
「ん…棗か?」
棗は茶道の道具で、茶を入れる筒状の器のことだ。昔、やはり春の日に満開になった俺の下で、坊主たちが茶会を楽しんでいたのを何度か見たことがある。彼女が持っている棗は漆塗りだろうか、真っ黒で何の模様も入っていなかった。
「真っ黒とは珍しいな…いや、待てよ」
俺は枝からひょいと飛び降りて、彼女の手の平にある棗をじっと見つめた。
「こいつは驚いたな」
棗は真っ黒なだけではなかった。全体に桜が黒で描かれていて、見る角度を変えると描かれた桜が浮彫になった。蓋の真上には小さな金色の三日月。夜の闇に隠れた桜が一面に咲きほこっていた。
「あなたのように、美しい桜を描きたかったの」
そう言うと彼女は俺の幹に手をそっと置いた。
「この棗の銘はね、“夜桜”よ」
幹に手を置いたまま、棗を掲げて俺の桜を見つめながらにっこりと微笑む。ふいに、彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られ、目の前にいる彼女に手を伸ばした。その時、昔に見た「神隠し」が頭をよぎった。
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