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桜吹雪が抱きしめるように女の体を包み、次の瞬間には女は消えていた。あの女は山神様に魅入られたのだ、と他の木が噂をしていたのを聞いた。今の俺には木力が十分ある。桜吹雪を起こすことなど簡単だ。彼女の身を桜吹雪で包み、俺が住む世界へ連れて行こうか。人間の世界では決して見られない美しい景色や、きれいなものを見せたい。そうして今度はお互いの目を見て語らうのだ。
俺は両腕を振り上げ、木力を放出した。ブワッと風がうなり、花が空に舞い踊った。桜吹雪が彼女の体を包んだ瞬間、
「きゃっ!」
と彼女はバランスをくずし、その手から棗がドサッと落ちた。その音でハッとした。俺はいったい何をしようとしたんだ。俺は桜の木だ。人間とは一緒に生きられない。何百年も見てきたことなのに。自分のしようとしたことに気がつき、恥ずかしくなった。
「すまない。君を……連れていこうとした」
俺は転がった棗を拾って、彼女のそばへ歩いて行った。彼女は突然の桜吹雪に包まれて目をギュッとつむっていた。俺は顔を両手で覆っている彼女の手に棗を乗せて、その手を優しく両手で包んだ。彼女と共に生きたいと思うこの気持ち、目を合わせて語らいたいと思うこの気持ちを、こんな感情を何と呼ぶのか俺は知らない。分かるのは、彼女を連れてはいけないということだ。
「美しい夜桜を作ってくれてありがとう」
祈るように俺はささやいた。決して聞こえはしないが伝えたかった。これから俺は散ってしまうが、決して散らない夜桜を作ってくれたこと、俺を描いてくれたことが、ただ嬉しかった。彼女の手に重ねた自分の手が、透けてきている。さっきの桜吹雪で思いのほか、木力を使い過ぎたらしい。しばらく木に戻って木力を取り戻さなければ。まだ目をつむっている彼女を見つめ、最後に一度、ヒュウッと棗をひとなでして、俺は人の姿から桜の木に戻った。
「んー…すごい桜吹雪だったわ」
目を開けてほうっと息をつく彼女が抱えている腕の中には、棗と一緒に桜が一枝、添えてあった。
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