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今回は、勤続五年目にして初めて上司から一任された大事な取引契約の商談が入っているので遅刻は必ず避けなくてはならない。新しく開発した、しかも当社の主力商品の開拓に向けた第一号を取っていただけるのか、また、いくつの仕入れ契約をしていただけるのかがかかっている。先方には長くお付き合いいただいているので気が知れているとは言え、何が何でも遅れるわけにはいかない。
こうして改めて気を引き締めるのは、今まで、大事な時に限って遅刻をしていたからであるが、私とて罪悪感がないわけではない。寝過ごしてしまえばそれなりに申し訳なく思うし、自分を責めてしまうし、周りにも気を使えば胃が痛くなったりもする。いいことなど一つもない。だから、不安要素を摘むためにも早くもう一度眠ってしまわねば。
だが、願わくばこのまま夜のままでいてほしい。夜のままならば上司の矛盾したわけのわからない指示に従わなくて良くなるし、理不尽な要求もなくなるし、他人の期待を背負わなくて済むし、犯した失敗に周囲の目が気になることもなくなるし、後輩の面倒も見なくて済むのだから、このまま眠りにつけずとも深い宵に安寧を保てたらどれほどいいことか。
静かで暗く、湿度を保ったあたたかな空間と己の心音は、胎内を思わせた。かの頃の記憶はない、が、過去に教科書で見た胎児を真似て身をくるませると一層落ち着いた。
胎児の柔軟な身は気まぐれに動き、へその緒を通じて生命維持のためだけに努める。心地よい温度と心音。浮かぶ体は羊水に身をゆだねる。
今、私の置かれている状況が胎内の環境に例えるなら、このまま明けてくれなくても良い気になってくる。
このままで、どうかこのままで。
願えど、黎明を迎えるのは必至なので、やはり遅刻をしてしまいそうだ。定刻に起きるためにも戯言の並ぶ意識から脱却しなくては。などと考えているうち、私は三度(みたび)眠りについていた。
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