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きかんこ、と岩瀬は口の中で呟いて、頭のなかで変換する。富山の言葉できかん、と言うのは賢い、という意味。何度聞いてもこの変換作業に少しの時間が必要になるのは、やはり言葉自体の印象のせいだろうし、もうひとつ、きかん坊と言えば生意気な、という意味の違うよく似た言葉があるからだろう。
人の手によって存在する岩瀬にとって、飛び交う方言を理解するのは、ほんの時々大変だけれど、もう慣れた。言ってみれば儀式的なものだ。岩瀬にとってのみ、の。
「ま、ほら。昔はお互い色々あったいね」
な、と松川の肩を叩く。その手に言葉にしないが何やら思う節が見えて、松川もそれ以上を言わないことにした。
「あ、でも」
岩瀬が持ったままの魚籠を見て
「あん時も、おいね、鮎を釣っとったねか。まだそんな暑なっとらん時期やったけど」
「ほやったっけ?」
うーん、と昔を思い出そうと首を傾げる。夏の、日。まだメガネの、頃。
「なぁん思い出せんがやけど。いっちゃあ、忘れとっとっても、もういつやらの話で覚えとってもなん意味ねぇし」
「ま、ほやな」
あはは、と二人、顔を見合わせて笑うその様子には、岩瀬には入り込めない年月が確かに存在しているのだろう。けれどそれも、ずいぶんと、彼らにとっても昔の話。
「あってもなぁても、じゃまねぇわ」
その程度の記憶だけれど。
「けどそん時の鮎は、どやったんやろ」
おいしかったのならきっといい思い出だったのだろうと、自分の事ながらに思う。
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