第1章 弦楽のためのレクイエム

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晴人が身を翻しながら、部屋を出て行く。 外からポルシェのエンジン音が、遠ざかる 様に響き渡った。 東京郊外の土地開発地区があり、 そこには幾つものタワーマンションが 建設されていた。 その一角に58階建てのタワーマンションが 聳え立っていて、一際注目を集めている。 マンションの50階に、若い女が ひとりで住んでいる。 女は名前を沙梨エリ(さりえり)と言い、 勿津晴人が名義人となっていて、 すなわち晴人の愛人だったのである。 何故、これ程羽振りが良いのか、 彼は日本有数の資産家に産まれ、 一切の不自由は無かったのである。 裕福な家庭に育った人間は、かなりな 高いプライドの持ち主だ。 金銭に関してそれ程執着が無い、 幾らお金を使っても親が必要な分を 出してくれるからだ。 高光徹とは対象的である。 英雄色を好むと言われるが、晴人も 例外では無かった。 妻子家族がある身にもかかわらず、 愛人を囲っている。 明るみになれば世間からの非難は 免がれないだろう、だがパブロピカソは 何人もの愛人を変えながら、素晴らしい 芸術を残しているのだ。 名声の為にはこれぐらい・・・ 日本の音楽家から世界の音楽家へ、 晴人の野心は留まる事を知らない。 赤いポルシェが地下駐車場に滑り込む、 そして50階に住む沙梨エリの部屋へ。 晴人がエリの部屋に入って来たのは、 明け方の午前5時を過ぎていた。 それでもエリは、ニッコリ微笑みながら 晴人を出迎えてくれた。 優しさに包まれた晴人が、4LDKの 部屋に上がり込む。 ひとりで住むには少し広いようだ、 だがエリにとっては、セレブの仲間入り を果たした気分。 ルンルン気分のエリに対して、晴人は 浮かぬ気分。 ゴーストの発覚は絶対避けなければ、 何としてでも・・・ そして、現代音楽に未来はあるのか? それは、世界的指揮者の発した言葉が 気掛かりになっていた。 ルーマニア出身の ジェルジュ・チェリビダッケ氏は。 『現代音楽の最大の悲劇は、名曲が 一曲も無い事だ』 彼の発言は的を得ていた、ロックや ポップスが隆盛を迎えるなか、 クラシックの現代音楽は、下降線を 辿るばかり。 そこで、高光氏に大衆に受け入れられる 曲を要請したのだ。
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