覆水、盆に返らず

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覆水、盆に返らず

 夜だ。  幸いなことに新月で、街灯も少なく、人気もない。  近付いてくる、耳慣れた革靴の音に、男はごくりと唾を飲み込んだ。  ストレス社会と言われるようになって、いったい何年が経つのだろうか。  ギリギリのところで踏みとどまれなかった人の数は、そう少なくはないだろう。グラスの淵に盛り上がった水が耐え切れずに零れ落ちるように、今日も誰かが電車に飛び込み、憎い相手にナイフを振り上げたりしているのだ。  男が今、まさに行おうとしていることも、そんな社会の歪の一端にすぎない。  理由は今更くどくどしく並べたりはしない。ニュースやらなんやらで取り上げられている問題と、寸分違わずと思っていい。  それでも敢えて述べるのならば、男は新卒で、相手は上司だった。男は不器用な程真面目で、上司は神経質なまでに細かく、何かにつけてすぐに怒鳴った。  男は、もう限界だったのだ。  路地裏に身を顰め、男は冷汗を拭った。  革靴の音が、近付いてくる。何も知らずに、かつかつと。コンクリートを打ち鳴らし……。  握り締めた鉄パイプに、更に力を籠めた。  これで、ひと殴り、ふた殴り。それで全てから解放される。今まで自分を苦しめていた、あの怒鳴り声ともおさらば出来るのだ。  落ち着け。  男は自分に言い聞かせる。  仕損じるな。思い切り、この鉄パイプを打ち下ろせ。  ――……来た!  竦みそうになる足を叱咤し、男は上司に躍りかかった。  夜の闇に、絶叫が響いた――。 「だから! 根菜は水から煮るのが基本だと、何度言えば分かるんだ!」  男は自らの犯した罪を、深く反省している。 「お前は日頃の生活もたるんどる! これからは二十四時間、しっかり見張らせてもらうからな!」  覆水、盆に返らず。後悔しても、もう遅い。  俯いた男の視線の先に、見慣れた革靴が半透明になって、ゆうらりと浮かび上がっていた。
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