アゲハチョウ  Papilio xuthus

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アゲハチョウ  Papilio xuthus

 この席からは、窓越しに校門が見える。  二ヶ月前、私の恋はこの窓から始まり、それは先ほど、この窓で幕を閉じた。彼女がいないなんて保証は全くなかったのに、勝手に期待していた私が悪い。それは分かっていたけど、実際に手を繋いで帰られたりしてしまうと結構辛い。  うっかり窓の外を見てしまったら、せっかくのきれいな夕焼けが涙で霞んできたので、今度は窓に背を向けて机に身体を倒す。何の気なしに見ていた廊下から、痩せた人影が教室へと入ってきた。  ――あ、天道。  天道は、私の姿を認めると、とたんに目を泳がせた。  彼はクラスでもどちらかというと影の薄い方で、人付き合いもいいとはいえなかった。もちろん私自身も、天道とはほとんど話したこともなかった。その上、生物部所属の生き物オタクでは、話が合うはずもない。つまりは、二人きりになると気まずい。その程度に『親しくない』クラスメイトだ。  できればこっちを見ないで欲しい、と私は密かに願っていた。正直、今、彼に話しかけられても、重荷にしか感じられないはずだった。とても失礼なことだけれど、失恋したばかりの人間にかけるような気の利いた言葉を、天道はきっと知らないだろうから。  しかし、天道はなぜか意を決したように私の方へと向き直り、どもりながら声を掛けてきたのだった。 「秋津――さん。……居残り?」  私はあからさまに顔をしかめただろうと思う。目が赤いのが、見えないのだろうか。早く、一人にしてはくれないだろうか。隠すつもりもなくあからさまに表情に出し、無言を通すつもりだった私に、彼はさらに追い打ちをかけてきた。 「……あの、どうかしたの? もしかして泣いてた、とか?」 「分かったらそっとしといて!」  突っ伏していた体を起こしてそう答えた。声が教室に響きわたり、思ったよりも語気を荒らげてしまったことに、私は怒鳴ってから気付いた。はっとして天道を見ると、引きつった顔で唇を噛んでいた。いまさら引っ込みがつかなくなった私は、ややトーンダウンしながらも、続ける。 「ほっといて。今、あんまり人と話したくない」 「ご、ごめん」  申し訳なさそうに俯いた彼の前髪が夕陽を映し、くすんだ光を放った。  私がさっき目を逸らし、見るのをやめた美しい夕焼けが、天道を介して私に届いた。その鈍い輝きが、私の心を洗っていく。  天道がよろよろと机にぶつかりながら自分の席へと移動して行くのが目に映った。自分の机に置きっぱなしだったらしいショルダーバッグを手に取ると、廊下の方を向く。 「ほんと、邪魔して、ごめん。俺、部活行くから」 「……待って」  天道は怯えるように身を竦め、その場で立ち止まる。もともと体格が良いわけではない彼が、さらに一回りほど小さく感じられた。  何の関係もない天道を、私の身勝手で傷つけた。勝手に泣いていたのは私で、天道はたまたま教室を訪れてしまっただけだ。なのに、心配して声をかけてくれた彼に、子供のように八つ当たりしてしまった。  こんなに醜い私の恋なんて、実らなくて当然だった。それに、天道のおかげで気付くことができた。 「天道はぜんぜん悪くないから。……ちょうど今、失恋、しちゃってさ」  一旦は止まっていた涙が、失恋という言葉を口に出すことで再びぶり返してきた。胸の痛みがじわじわと広がってくる。震える唇を何とか操って、天道に「ごめんね」とだけ伝えると、私は声を必死で押し殺しながら、すすり泣きを始めた。  ぼやけて見える彼は、緊張したように肩をいからせたまま、身じろぎもしない。  どのくらいそうしていただろうか。  彼は不意にこちらを向くと、私の机までずんずんと歩み寄ってきた。両手をどん、と机に突っ張り、私の顔を覗き込む。天道の眼鏡のレンズには赤く燃える空が映りこんでおり、その下の瞳は、しっかりと私を捉えていた。 「俺、今、アゲハチョウを飼ってるんだ。蝶の中でもナミアゲハが一番好きなんだ」 「……え?」  天道は目を輝かせ、勢いに圧倒されている私になどお構いなくまくしたてた。 「蝶はね、蛹のあと、成虫の姿が綺麗だと思うんだ。成虫ってのは、いわゆる一般的に思い浮かべる『蝶』のことなんだけど。チョウは、蛹の間、一度どろどろに溶ける。そして、生まれ変わるんだ。それを変態っていうんだ。芋虫がさ、蛹の中で部品を全部作り替えて、蝶になって出てくるんだよ。それはもう、ほんとにドラマティックで感動的な変身なんだ!」  いもむし? さなぎ? あげはちょう?  なぜ、蝶の話になるのだろう。私は呆気に取られるあまり、尋ねるのも忘れて彼の話に聞き入ってしまっていた。  天道は私の表情に焦ったのか、やけに身振り手振りを大きくしながらも、さらに話を続ける。 「秋津さんも今は蛹だよ。生まれ変わってもっと羽ばたくための一休みなんだと思うよ。きっと、まだ準備期間なんだ。蝶になれば、いろんなもの、たくさん見られるようになって、いつかは辛いことなんか忘れちゃうよ」  気付かぬうちに、鼻先に天道の顔が迫っていた。 「だから――だからもう泣かないでください」  私の中で、泣かないでという言葉と蝶の話とが、ようやく一つになった。見開いた目から涙が溢れ、私の視界がはクリアになる。  ぶ厚い眼鏡の奥で、天道は眉を八の字に寄せ、自分の方が泣きそうな顔をしていた。  彼は、彼なりの言葉で精一杯励ましてくれていた。生き物マニアの彼が、わざわざ自分が最も好きな虫を引き合いに出して。そう思うと、蝶とか蛹とかの話は正直ほとんど理解できなかったが元気は出た。例えば天道以外の誰かが教室に入ってきたとして、私はこんなに素直に心の内をぶっちゃけられただろうか。  彼のおかげで楽になったのだと改めて感じる。途端に、恥ずかしさと情けなさのあまり、顔に熱が上ってきた。こんなに優しい人に私は何てことをしてしまったのだろうと、身の縮む思いがした。涙を拭い、とりあえず謝る。 「ほんとごめん。酷いこと言って」 「これくらい、何ともないよ。こっちの方こそ、必死すぎて気味悪かったでしょ?」 「ううん。おかげで、ちょっと復活したし」  私の言葉に、天道は力なく首を振った。 「喋り過ぎて悪かったと思ってる。俺、何を言えばいいのか分からなくて、得意分野のことならすらすら喋れるから、それで。好きなものには、つい必死になっちゃってさ。本当は、もっとうまく元気づけてあげられたらよかったんだけど、下手でごめん」  本当にごめん、と、自分の足下を見つめたまま、天道は独り言のように呟き続けていた。私の目には、彼の長い前髪しか映らなくなった。今どき珍しく、真っ黒なストレートだ。  好きなものには、必死に。  少し前までの私は、片思いの彼に目の色を変えていた。恋を失った私は、何に必死になれるのだろう。今の私には天道のように打ち込んでいるものなんてない。急に彼が羨ましくなった。 「ね、天道って、何で虫が好きなの」 「気付いたから――こんなにたくさんの命があるんだってことに。他の人が気にしなくても、俺には気になる。だから、見ていたい。見てると幸せ。それだけ。……大したことない理由だけどね」  よどみなく、彼は答えた。例え理解者が少なくても、天道はぶれない軸を持っている。私を慰めてくれた不器用さとは全く真逆の歯切れの良さ――シンプルな論理は、聞いていて心地よかった。私も、好きなものを好きだと言えたならどんなによかっただろう。 「私も、ちょっと天道を見習おうかな」 「虫、見たいの?」 「気が向いたら、アゲハでも見せてもらうかもしれないけど。……今は、蛹の時期を満喫しようと思うよ」 「そっか。……良かった」  天道はそこでふと時計を見ると、「今度こそ部活に行かなきゃ」と言い残し、慌てて教室を出て行こうとする。うっかり大事な言葉を伝え忘れそうになり、私は彼の背に叫んだ。 「ありがと、天道!」  天道は振り向くと、ふわりと笑った。眼鏡のフレームが西日を跳ね返してきらりと光る。  まるで、日の光の中へ飛び立つ蝶の羽のように。
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