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向井は泣いていなかった。そこに感情はなかった。
いつもなら、臭いものには蓋をするんだ。俺は開けたりしない。平穏でいたいから。俺は俺だけで精一杯だから。
でも。だけど。
こいつの体についた唾液は誰のものだ。こいつの傍に落ちている、白や透明の液体は何だ。こいつはただ、俺を待っていてくれただけじゃないか。こいつは俺を、手伝ってくれただけじゃないか。
「服をちゃんと着ろ。誰が来ても、おかしくないんだ」
助言するのに相手は動かない。
俺は溜息を漏らし、向井の傍にしゃがみ込んだ。
ボタンが飛んだシャツの前を合わせようとし、手を払いのけられる。
「自分で、できる……」
「さいですか。じゃあ、俺は机でも直すとしますかねえ」
後頭部を撫で、無残に倒れる机へと歩く。ちらりと背後に目をやると向井がシャツの前を合わせようとしていた。その指が震えている。どうやら、辛うじて糸が切れていないボタンを、嵌めようとしているらしかった。
俺は出入り口を閉めた。
「ジャージ、持っているか?」
「部室になら」
俺もそうだ。
でも、タオルは鞄の中に入れてある。雨で濡れた後始末を、早くしたいがための選択だ。俺はそれを、床に放り出されている鞄から取り出し、向井のもとへ歩いた。
「本当なら濡らしてきてやりたいんだけど、余裕がない」
染みを落とす要領で透明な液を拭う。
胸、腹、腰。
露になっている、向井のそれは、べたべたに濡れながら、まだ起立していた。
俺の視線に気付き、向井が生唾を飲み込み、体液でぐずついているまま、トランクスとズボンを穿こうとする。
「見てないから」
本当は見えているけど。
「見てない」
この際、嘘も方便。
向井は俺の目を見つめた。俺は無言で手を動かすのをやめ、相手の出方を待った。
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