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倉庫化した部屋を出て、私たちは素知らぬ顔で再び親戚に酒を注いだ。義母は父と微笑みあっていた。
翌日、私は父に頭を下げ、東京行の新幹線に乗った。また昼夜のない生活が始まり、どうにかこうにか、商談を良い具合に終わらせられ、私の首は繋がった。
それを祝うかのように、奴が、幸島が、現れた。
私は彼と数十日を共に過ごし、空っぽになってしまった。
そう、私の中にあった不安や不満や少しの希望、ありとあらゆる感情を、幸島は、奪っていったのだ。
幸島と別れて二週間経った今、仕事帰りに、私は初めて、一人でバーに入った。
グランドピアノがあるくせに、スポットライトも浴びず、総じて寂れているバーだった。
私は、どんなものかもわからないカクテルとやらを頼み、マスターの手つきを見つめながら、胃に落としていった。
私はたぶん満たされたかったのだ。
何でもいい。
私の中で力に変わる何か、起爆剤のようなもの。
「その辺にしとけ」
崩れた口調に私は瞬きをした。男がいた。私の脇に腕を差し込み、スツールから腰を上げさせようとする。
「すみません。先に上がらせていただきます」
男は心持高いトーンを出すとバーテンダーに頭を下げた。
「おい、代金がまだだ」
バーテンダーが私に視線を向ける。
「ツケといてください。明日、俺が払います」
男は私のアルコールで冷えた手を強く握りしめた。私はこの時、懐かしさを感じた。昔、よく私の手に触れてきた友人がいた。加藤だ。
十九の冬、母の急死を受けた時、二十二の春、交通事故に遭い、生死を彷徨った時、就職活動で不採用通知に落ち込んでいた時、加藤は無言で私の手を握りしめてきた。
私は不思議だった。彼には自分に起こったあれこれを洩らしていなかったからだ。彼がなぜ、こんなにもタイミングよく、二人きりになった時に手を重ねてこられたのか、今でもわからない。
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