一章

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「身投げの井戸に女を見た」  見張りの交代にハシェドが来たとき、ワレスは言った。  ハシェドは顔をしかめる。  誰だってイヤだろう。  これから数刻、一人で夜の塔の屋上を見張るというとき、こんなことを言われれば。 「女ですか……」 「城の女官だろう。上三位の衣をつけていた」  ワレスが言うと、ハシェドはホッとする。女が魔物のたぐいでないとわかったからだ。ここに女は極端に少ない。  国境のボイクド砦。  城を一歩でも出れば、そこは人跡未踏の魔性の森だ。人間の想像もつかないような魔物がウヨウヨいるという。  もっとも、その森に入って、生きて帰ってきた者はいない。だから、真実はわからない。わかっているのは、そこから帰った者はないという事実だけだ。  ボイクド城はそれら未知の脅威から国内を守るために築かれた砦の一つだ。  ワレスがこの砦に来たのは、ほんのひとつき前のこと。命を金で売る商売。つまり、傭兵として。  ワレスの生まれたユイラ皇帝国は、世界でも最先端の文明国だ。魔物におそわれて、いつ死ぬかもわからないような砦の兵士になりたがる者は、まずいない。  ここへ来るのは、ユイラで大金をかせぎたい外国人や、ユイラ人なら前科持ち——そんなところだ。  ワレスの位は小分隊長。  ハシェドはその部下だ。  ハシェドを屋上に残し、ワレスは階段へ向かう。  中庭に面した東の内塔。  ワレスたちの分隊は、この屋上の夜間の見まわりが任務だ。内部はワレスの属する第四大隊の傭兵の宿舎になっている。  二階から上の各階に、およそ百人ずつ。調度も飾りもない寝台だけの部屋に、むさくるしい男がつめこまれている。  一階だけは武器庫だ。  ワレスは階段をおりる前に、もう一度、庭をながめた。  やはり、いる。女だ。  兵士たちのあいだで、身投げの井戸と呼ばれる井戸のほとりに、若い女が人待ち顔でたたずんでいる。若いとはいえ、ワレスより二つ三つ年上だろう。たぶん、三十くらい。それでも、砦にいる女のなかでは、きわめつけに若いに違いない。  砦の人員はほとんどが男だ。どうせなら、いざというとき、戦闘員になる男のほうがいい。台所や下働きでさえ、男ばかり。  城主の世話をするためだけに数名の女がいると、ウワサに聞いたことがある。一万人の兵士のなかの、ほんのひとにぎり。  井戸端にすわるあの女は、きっと、そのなかの一人だ。なかなか美人のようだ。遠目にも見事なプラチナブロンドが輝いている。  なぜ、彼女はここにいるのだろう?  まともな人間なら、男でも来たがらないのに。  女に嫌気がさして、ワレスはこの辺境の砦に来た。  なのに、不思議だ。  ひとつきぶりに女の姿を見るのは気分がよかった。 (誰かを待ってるのか? こんな真夜中に? 命知らずな女だな)  女は身投げするつもりなのだろうか。それなら止めたほうがいい。  ワレスは別に自殺を悪だとは思わない。本人の命だ。ほんとうに死にたいなら、好きにしたらいいと思う。だが、女の自殺を止めれば、城主の覚えはよくなるだろう。それが狙いだ。  ながめていると、女は立ちあがって門に向かった。  考えすぎだったようだ。  女は誰かを待っていたらしい。恋人でもいるのだろう。  ワレスは五階へおりた。自分の部屋の寝台にもぐりこむ。  三段ベッドが四すみに一つずつの十人部屋。  天井は高いがせまくるしい。夜には窓も閉ざすので、室内は息が切れるほど、男臭い。  ——わたくしと逃げて。ワレス。  女を見たせいか、忘れかけていた記憶がよみがえった。  血のなかに倒れていた女。  女を抱きしめ、嗚咽(おえつ)した男。  ばかばかしい。  勝手に熱をあげたのはむこうだ。  おれのせいじゃない。  そう思うのに、目を閉じると、女の顔がまぶたの裏にゆれた。
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