六章

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 *  ——わたしは命がけで、あなたを愛したわ。  耳もとで女の声がする。 (わからない。なぜ、おまえは、あんなことをしたんだ。ティアラ。おれはジゴロだった。おまえはだまされてたことに憤慨(ふんがい)して、おれを恨むのがあたりまえじゃないか。命をかけるほどの相手じゃなかったはずだ)  耳鳴りがする。  鼻からも口からも水が入ってくる。  ものすごい力にひかれるように、ワレスは暗い水のなかを流されていた。  目の奥が痛んで、体が重い。  自分の体が棒切れのように感じられた。ほんとに自分の体が、まだ存在しているのかもわからない。  おれは死んだのか? もう苦しくなくなった。  それとも、これは夢だろうか? あんなところに、ティアラがいる。  花盛りの皇都で馬車をおりてきたところ。馬車を帰して、ワレスの屋敷に入ってくる。門の前で、ティアラは呼びとめられた。 「失礼。奥さま。お話があるのですが」 「あら、あなた」  ロディーだ。  ティアラはロディーをおぼえていた。 「ダンスホールでお会いしたかたね。おつれのかたが、ここの住所を教えてくださって」 「ええ」と言ったきり、ロディーは黙りこむ。 「どうかなさって?」 「ええ……」  ロディーは渋い顔で話しだした。 「私は後悔しています。あのとき、住所など教えるのではなかった」 「なぜ?」  ティアラはまったく警戒していない。  ワレスは神妙な表情のロディーの内心の薄笑いが見える気がした。 「彼はね。男妾なのです。お金でご婦人の相手をする男なのですよ」  言ったな!  怒りが爆発する。が、もう遅い。たぶん、これは過去のことだ。  では、ティアラは知っていたのか?  いつから、おれがジゴロだと? 「嘘です。そんなこと」  ティアラの声はふるえている。  ロディーはかさねて無慈悲な言葉をなげた。 「そのうち、彼からお金の要求をしてきます。まあ、見ていてごらんなさい」  でも、もうティアラは最初の指輪をワレスに渡してしまっていた。 (思いだした。あの服。ティアラが青い顔でとびこんできて、いきなり、おれにブローチを押しつけてきたときだ) 「これをあげる!」 「受けとれませんよ。こんな高価なものを」 「あなたには、これが必要なんでしょう?」  ティアラの口調のなかに、かすかに哀れむようなものを感じた。カッとなって、ワレスはティアラの手をふりはらった。 「バカにしてるのかッ? あなたは。おれを!」  二人の手のあいだから、ブローチが落ちて床にころがる。  青ざめて立ちすくむティアラ。  やっと、ワレスは冷静にもどった。  気まずい、沈黙。  そうだ。おれはジゴロなんだ。金のために女を食い物にするヒルみたいなものじゃないか。何を今さら、きどってるんだ? 「すまない……」  謝罪してブローチをひろった。  今ならば、わかる。  あのとき、ティアラが哀れんでいたのは彼女自身だった。これから、たっぶり金銭をむしりとられる自分を。  そして、ティアラはワレスをゆるした。女にたかる汚いジゴロのワレスを、ゆるして、愛してくれた。  なぜなら、ティアラは知っていたからだ。  ワレスが自分のしていることに嫌悪をいだいていることを。彼女の手からブローチをたたき落としたときの、ワレスの怒りが本物だったことを、ティアラは見ぬいた。  ——わたしと逃げて。  そう言ったとき、ティアラは心のなかで、こう言っていた。  もう一度、わたしといっしょにやりなおしましょう……。  ティアラの手はあたたかかった。おれを救いだそうとしていた。だから、おれはティアラが怖かった。彼女の手をとってしまいそうで。 (おれは……)  おれは、誰の救いもいらない——!  ワレスはむりやり過去の夢をふりはらった。
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