Hela細胞

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Hela細胞

 暗がりの廊下は、どこまでも続きそうで不気味だ。  病院に併設してある研究室はどことなく陰うつで物悲しい。俺はその一角の細胞培養室で実験の毎日を送っていた。  緑のリノリウムの床に、古びたスリッパが散らかる。眼についたスリッパを引っかけ、奥のクリーンベンチに近づく。その正面に配置されている実験器具を置く机の上も乱雑だ。顕微鏡、遠心分離機、細胞計数盤、ピペットにチューブ。それらが無秩序に散乱している。  細胞を扱う作業場であるクリーンベンチに電源を入れると、紫外線で青白い殺菌灯が白色の蛍光灯に変わる。冷蔵庫から細胞に栄養を与えるためのメディウムを取り出し、室温で溶かすために十五分待つ。  そしてその後、実験で何度も継代している細胞にさきほどのメディウムを加える。透けたガラスにルビー色のメディウムが満たされていく。シャーレの中で繁殖する癌細胞たちが三日ぶりの栄養に息を吹き返し、これでまた増殖できると喜ぶ声が聞こえてきそうだ。  細胞が成長しやすいように二酸化炭素や湿度が特別に調整されたインキュベーターに、処理の終わったシャーレを移す。俺の細胞を保管している区画の横には、依楓が飼っている細胞が無数のシャーレに敷き詰められ、山を築いている。その一つ、Helaと書かれたシャーレに眼が止まる。  Hela細胞。  それはかつて、黒人のMrs.Helaの子宮頸部から発生した癌細胞だ。1951年、ジョージ・オットー・ゲイはこれを無断で培養し、増殖させることに成功した。これは人類が始めて、人由来の癌細胞の培養に成功した瞬間であった。  そしてこの細胞を用いて人類は様々な実験を行ってきた。細胞が正常に生きるための生理学から、なぜ細胞が痛んで壊れていくかの病理学まで多くの実験がなされた。そしてその功績は人類の英知となり、論文になり、教科書になり、現在の臨床現場に生きている。  Mrs.Helaが亡くなった後も、彼女の細胞は培養室で生き続け、今日もまた生化学の実験に使われている。
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