Hela細胞

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 もし癌がこの世に存在しなかったら。  癌の研究でもたらされた生物の仕組みは手つかずのままで、俺たちが受ける医療の水準はさらに低いものであっただろう。  そして実験を生業とする俺たちにも支障が生じる。実験で飼われている細胞のほとんどは、癌化して細胞増殖が盛んな細胞を利用している。もし癌細胞がなければ、今のように細胞を用いての研究は維持できずに停滞する。  つまりは癌に感謝すべき点もあるのだ。特に俺たちのような、癌に寄生する研究者にとっては。  そこで依楓が培養室の入口から顔を覗かせる。次の講演のためにと疲れを押して自分の部屋に籠もり、さらなるスライドの改良と最新の情報を確認していたのだ。 「まだ残っていたのか。斗真、今日は休め。無理をし過ぎだ」  俺はまったく同じ意見を依楓に対して思っていた。だがそんなことを言っても意味がないことは、互いがよく知っている。 「分かっている。だがここが俺の正念場だ」  アルコールで手を消毒し、次の作業に移る。依楓は俺の決意を感じ取り無言で一つ頷いた。 「お前がいなければ今の俺はない。あと少しだけ我慢してくれ」  その言外には様々な思惑がある。あと少しで依楓が教授の座に上り詰めること。あと少しで新薬が市場に出回ること。  そしてあと少しで、世界が変わること。 「我慢なんかじゃない。実験さえ出来れば、俺は十分だ」 「依楓准教授、こちらにおられましたか」
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