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そこで依楓を第三者が呼び止める。
振り返った依楓の声音で相手が薬品会社の者だと分かった。新薬についての論文を発表してからというもの、俺達は時代の寵児として扱われている。
こぞって薬品会社が情報交換を申し出てくる。世界を股に掛ける超一流のラボからうちに来ないかと誘われる。
そして今日のように日本の各地で特別講演が組まれるのもそうだ。
「なるほど、あの件ですか。それならば、こちらへ」
依楓はこちらに目配せして培養室を去った。どうやらこれから話し合いのようだ。
一人きりの世界で俺は実験を再開する。新薬をさらに発展させるための追加実験だ。
さっき山になっていた依楓のシャーレから、Hela細胞に新薬を加えたものを一つとって顕微鏡を覗く。そこで違和感を憶える。適当に眺めていたら見逃してしまいそうなほどの、シャーレの端のちいさな一塊に、死んでいない癌細胞がいた。
俺は考え込む。
濃度が足りなかったか、薬がまんべんなく行き渡らなかったのか。
あるいはー
顕微鏡の光に透かされ、Hela細胞は丸い核と辺縁だけを映して静止している。それが一体どんな意味を持つのか。俺はその意味を見定めるように顕微鏡のレンズを覗き続けた。
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