斜陽

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「いいか、斗真。よく訊けよ。今の日本では一年間に十万人が自殺している。この国の先の見えない不安感や閉塞感のせいだろうな。見事に俺たちの研究は的外れだ。俺たちが研究している癌は五十歳以降の死因の一位だ」  あまりの戦慄に、俺は動かしていた箸を止めた。依楓はなにかから逃れるように一気にビールを飲み干し、グラスを乱暴に置いた。 「斗真も気づいただろう。今日来ていた聴衆のなかに若い奴らなんて、俺の眼にはほとんど映らなかった」 「それがどうした。自殺をそんなに止めたいなら、研究をほっぽり投げて臨床心理士になればいい」  酔いも合わさり、歯切れの悪い依楓に対して俺は熱くなる。依楓は雰囲気を明るくしようと無理に笑ってみせた。その笑顔が痛々しい。 「違う、違うんだ。そういうことが言いたいんじゃない。ただ、空しいんだ。癌さえ克服できれば世の中を変えられると思っていた。誰もが安心して暮らせる理想の楽園が誕生すると信じていた。だが」  依楓の中から溢れてくる心の叫び。俺はそれを黙って聞くことしかできなかった。 「世の中は変わってしまった。働く人数が足りないから若い奴らは必死に働いて、なんとか社会を回している。でもそんな若者に時間的、経済的余裕はない。結婚なんて夢のまた夢だ。そうするとまた子供の数は減る。それなのに俺たちは命をながらえさせる医療ばかり発達させていく。悪循環だ」  そう、医療こそが少子高齢化現象の影の立役者だ。  でも人はそのことを口にしない。なぜなら人には情愛がある、絆がある、思いがある。大切な者の死を簡単に受け入れられるはずがない。  依楓は誰よりもその意味を知っていて、すべてを投げ出し、研究にその身を捧げてきた。そして依楓は理想の楽園に辿り着いたはずだった。  しかしその眼に映る世界は、楽園ではなかった。
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