三十年後

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 扉の前で待機していた日本人看護師に、受付横の説明室に通された。その途中で、色々な患者を眼にする。青い眼、黒い肌、頭を覆う頭巾。  三階の外来病棟、説明室の窓から下界を見渡す。中国語や韓国語、英語に、イタリア語、様々な看板が続いていく。その看板の下を歩く人々もそれに合わせたかのように多種多様だ。  多種多様性。確か前年の流行語が、そんな言葉だった。 「変わりましたね、日本も。そしてこの病院も」 「ええ、そうですね」  事務的に業務をこなすために、彼女は釣れない返事だ。 「様々な言語が飛び交うこの仕事は、大変ですか」  なぜそのようなことを聞くのか、甚だ疑問という眼を向けた。しかしそれも、日常の患者のたわいも無い戯れ言だと判断したのだろう。 「ええ、そうですね」  彼女は切り揃えられた前髪を揺らした。 「ですがどこも同じですよ。生きていくためには働かなくてはいけません。生きるとは大変なことですよね」  その達観したような言葉に私は驚き、はからずも高笑いしてしまった。まさかそのような言葉を聞けるとは。看護師はむっと眉根を引き寄せる。「なんですか」 「いえいえ、しがない爺さんの感情失禁と笑ってください」  彼女は眉をつり上げ、表情を強ばらせる。私はそれに気づかないふりをしながら、灰色の業務机に杖を立て掛ける。そして弛みきった二の腕で体をかろうじて支えながら、説明室の椅子に腰かけた。 「それでは確認させてください。あなたは斗真さんですね」 「はい、そうです」  患者説明のマニュアルに従い、彼女は確認すべき内容が書かれた同意書を、私に示しながら丁寧に指でなぞっていく。 「ご家族はどのように現状を受け止めておいでですか」 「家族はおりません。以前はおりましたが離婚しました。それ以来連絡を取っていません」 「それでは、こちらに書かれている阿形(あがた)という方は」 「彼は私の教え子です。この病気の事情を説明すると名前を書いてくれました。若年ではありますが非常に聡明で、日夜研究を供にする私の良き理解者です」 「わかりました」  無愛想に彼女は頷く。
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