三十年後

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 ふと、思うことがある。  葵は、その子供は、元気にやっているのだろうか。変わりゆく日本を受け入れ、たくましく羽ばたいているだろうか。  ある夜、重い体を押して家に帰ると、家が静寂であることに気づいた。まるで引っ越したばかりのように、床は磨き上げられ、空気が澄んでいる。うっすらと覚悟のようなものを決めながら、家の中へと歩みを進める。  私の物以外のすべてが忽然と姿を消していた。そもそも妻も子供も、その存在が幻だったかのように鮮やかな幕引きだった。なにもかもを悟った私に妻の、もとい、元妻の葵は最後の言葉を認めていた。机の真ん中に、彼女の控えめな性格を現した直筆で、一言だけ便箋に書かれていた。  ごめんなさい  その文字の最後が染みになっていた。最後まで気遣ってくれる彼女の優しさが、研究に明け暮れる鬼の眼に痛かった。
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