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「榎木津、起きて……、」
じゃあもし後輩くんも申し出を断ったら、私はどうするのだろう。これからも、なあなあの関係を画家と続けるのだろうか。どうとも言えない関係性。曖昧だけど、表現しがたい私にしかわからないような幸せな世界。幸せだ。でもそれは世間にとっての幸せにはきっと当てはまらない。目に映る現実的な幸せを、理想を前に、私は堂々と幸せだと言えるだろうか。感じられるだろうか。でもきっと、そう感じられないからこうして悩んでいるんだろう。
「……達磨、」
舌の上に乗った呼び慣れない名はざらついていた。
画家は、起きない。
なんだかひどく惨めに思えた。あれこれと考えては迷っているのは、いつも私だけだ。悩めと言いたいわけじゃない。でも不公平だ、なんて我が儘な私が唇をとがらす。
ゆっくりと呼吸する背中にさえ、好きだと言えない。言ったところで起きるはずないとわかっていても、昔から私は臆病なままだ。なけなしの勇気で広い背中に掌を当てると子供のように暖かかく、穏やかだった。ゆるりと撫でるが、起きる気配はない。恐る恐る、寝っ転がったその背中の側に座り込む。部屋の中に、彼の呼吸音以外何の物音もない。酷く、息苦しかった。
「達磨は、私がいなくなったら、寂しい?」
思わずこぼれ出た言葉にハッとするが、どこか諦めの気持ちの方が勝っていて、ため息を吐く様にそのまま言葉をつづけた。
「たぶん達磨なら大丈夫だよね。なんだかんだ元気にやってくだろうし。」
「…………、」
「……ごめん、少しずつ荷物も持って帰るよ。そしたらきっとすぐに私のことなんか忘れるでしょ。」
違う、どうか忘れて。私のことは忘れて、幸せになってください。画家は私なんかよりずっと濃い自分の世界を持っていて、鮮やかな世界を生きているでしょう。刺激的で充実した生活から、私の姿が面影が消えるのは、ほんの寸の間のことでしょう。
私もあなたのことを忘れるから、思いの一つさえ伝えられなかった、ひたすら傍にいることもできなかった馬鹿な女がいたことはどうか、忘れてください。
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