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恋のフーガ
平は仙川を見下ろし、虚ろな目で現実を受け入れようと闘っていた。
陽はとっくに暮れていた。
妻からプレゼントされた腕時計は、容赦なく時を刻み続けている。
上空で旋回するヘリの音。
サーチライトが強烈に辺りを照らし出す。
消防車のサイレン音と色鮮やかな赤の色。
その人工的な灯火は血液の滑り。
全身ずぶ濡れの平の身体は小刻みに震え、着ていたスーツは土嚢ように重たい。
仙川に浮かんだ無数の黒焦げの遺体は、沼地に浮かんだ蓮の葉みたいにゆらゆらと揺れていた。
男女の区別もなく、大半の遺体は両手足を天に突き上げていた。
迫りくる火災旋風を避けようと、平はとっさに仙川へと飛び込んだ。
その直後、後方の人々も我先にと川へと飛び込んでいった。
平の身体にのしかかる生命の重さは、あっという間に存在を消してしまった。
水中でもがき苦しむ平の脳裏に、妻との想い出が交錯していく。
出会った場所。
初めて交わした言葉。
娘の誕生。
結婚記念日。
夏まつりの想い出が、次から次へと交錯する。
双子姉妹の妻は、地域の夏まつりでよく歌謡曲を妹と歌っていた。
『いっつも、ザ、ピーナッツなの!』
と、妻は笑っていたが、提灯に照らされながら歌うその姿は美しかった。浴衣がとても似合う愛する妻の歌声が、遠のく意識下でかすかに聞こえていた気がする。
『追いかけて 追いかけて すがりつきたいの。あの人が 消えてゆく 雨の曲がり角 ー 』
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