ベンチ越しの、ぬくもり

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ベンチ越しの、ぬくもり

 目の前が黄色く点滅する。鼻に冷たいハンカチが貼りついたように呼吸が苦しい。公園のベンチに座り込むと、今度はもう立ち上がることができなかった。 「妊娠9週ですね」  ペールピンクの壁色とは裏腹に、告げたられた言葉は淡々としていた。このところの体調不良はてっきり慢性化した不眠によるものかと思っていた。生理が2か月ほど遅れていることに気がついたのは先週のことだ。月末には旅行が控えていた。かかりつけのレディースクリニックの予約をとって、いつものホルモン剤を処方してもらう。ただそれだけだと思っていたのに。  言葉を失う私を一瞥して、医師はカチカチとボールペンを鳴らした。 「妊娠3ヶ月に入っています。体調不良も悪阻によるものでしょう。当院での出産を希望される場合、妊娠12週までに分娩予約をとっていただく必要があります。 …どうしますか」 産みますか 堕ろしますか  不意に迫られた命の取捨選択に腕はプツプツと泡だった。医師は「パートナーとゆっくり話しあわれてください」と、ペラペラした白黒の感熱紙を静かに置いた。  流れ作業のように隣の部屋へ呼ばれると、頬がパンパンに膨らんだ助産師に、ニコニコと迎えられた。母子手帳交付の手続きに、出産までの流れ、妊婦の心構え…助産師の言葉はまるで異国の言葉だ。待合室に戻ると、今度は幸せそうにお腹をさする妊婦の姿が目に刺さり、会計が終わると同時に逃げだした。  ベンチの冷たさを感じながら思い出す。1年前にも同じようなことがあった。誰に見られるわけでもないのに、駅の反対側のドラッグストアで購入した妊娠検査薬。駅のトイレに駆け込んで、結果が出るまでの数秒間「神様、ごめんなさい」と謝った。検査薬の反応窓はいつまで経っても真っ白で、深い深いため息が出た。間違いなく安堵した。けれどその白さは「お前は空っぽなんだ」と、そう言われているようで。    それでもやっぱりよかったと笑い話として話すと、松尾は笑った。 「もう、本当にびびった」 「なんで?欲しくないの、子ども」  そりゃ欲しいけど、と言いよどむ私に松尾はスラスラと言葉を続ける。 「恵美の子なら、可愛いんだろうな。俺、見たいよ。恵美の赤ちゃん」  松尾が私のアパートに通うようになってから2年が経っていた。冷蔵庫に常備された発泡酒を取り出す手つきも慣れたものだ。   
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