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接着剤よりは高くつくかもしれないけど、この際ちゃんと直して貰った方が、逆に長く使えるだろう。結構お気に入りの靴だから、まだ履き続けたい。それに文房具屋は、今いる場所からかなり離れていた。
これはもう運命としか思えない。もしかしたらこれを機に、保険の顧客になってくれる可能性もあるのでは――――。
希望と野望を胸に秘め、靴屋に片足でピョンピョンと飛んでいく。
お店の佇まいは年代を感じるものだったけど、レンガ造りのモダンなデザインでお洒落だ。ぱっと見、喫茶店みたいで『靴屋』とは思えない。
看板を改めて見ると――――『万木靴店』と書かれている。
「何て、読むの?」
ここは職業柄、名前を間違ったら失礼かと思って、ここでも検索してみた。
『万木――ゆるぎ、まんき、まき、まんぎ、ばんき、まるき、もろき、ゆするぎ、よろづき』。
「……思いのほか読み方が沢山あるな。無難なのは最初の三つかも?」
読み難い名前と言うのは、トラウマになっていたりする。そういう自分も『廿里』なんて簡単に読まれたことない。そのせいか、珍名な人は前もって調べる癖があった。名前を切っ掛けに話が盛り上がったこともあって、そこから契約が取れたこともある。
「今回は靴まで直して貰うから、話しを切り出しやすくなるかしら」
契約書を突き付けた時の所長の驚く顔を想像すると、今から楽しくて仕方がない。
色んな思いを胸に秘め、私は靴屋のドアを開けた――――。
「すみません……」
声を掛けながら中に入ってみると、店の主らしき人物が見当たらない。靴屋と言う割には売り物らしい靴が並んでおらず、高級そうな革靴が数点だけ棚に置かれていた。この様子だと、販売より修繕かオーダーメイドの方の靴屋のようだ。
ならば猶更ラッキーだ。靴を直して貰えるし、販売店よりゆっくり話が出来そうな気がした。
「すみませ~ん! 何方かいらっしゃいますか~!」
さっきより大きめに、再度声を掛けてみると――――ガッタン! と物音がして、やっとこ主らしき人物が現れて
「保険なら、要らないから」
開口一番、野望を打ち砕いてきた。
『トパーズの言の葉』収録作品
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