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ムーン・リバーを弾き終り、鍵盤蓋を閉める。わずかばかりの拍手をいただき、お辞儀をして、元の仕事へ戻った。
「なにか、作ってくれる?」
洋子さんが艶めかしく足を組む。月によって変わるネイルアートは、彼女の仕事の士気を高めるためになくてはならないものらしい。
バーボン、グレープフルーツジュース、コアントローをシェイクする。オレンジ色のカクテルを差し出すと、洋子さんは「ムーン・リバー?」と唇を伸ばした。
「はい」
「ありがとう」
引っ込みそこなった手に、洋子さんの指が絡みつく。もう一人のバーテンダーは俺と洋子さんに背を向け、グラスを磨いた。
「今夜、いい?」
洋子さんに初めて声をかけられた日から、俺は彼女の肉体を喜ばす役目を、甘んじて受け入れてきた。歌手としてデビューできるよう、会社に働きかけてくれると言う言葉は、蜜以外のなにものでもなかったからだ。
夢が叶うなら、チャンスを掴めるのなら、体を売るくらい、なんでもないと自分に言い聞かせてきた。プライドより大切なものはある。
口を開く。いつものように受け入れようとし、
「……すみません」
別の言葉が出た。
洋子さんは俯いた俺に苦笑した。
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