捨てられないハンカチ

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「座ってろよ。疲れているんだろ?」 「うん? ああ。寝たら、全快した」  歯を見せる男の目の下にクマがあった。  女だったら、どうやって佐伯を癒しただろう。男の俺は、どうやって佐伯を元気づけられるだろう。 「テレビでも観て待っていてくれ。ここは狭いから」  了解、と返事をして、佐伯は鞄からノートとペンを取り出し、ローテーブルに置いた。何年かぶりに小説を書き始めたんだ、と聴いたのは、ここ二、三日のことだ。  肩の力を抜いて、魚に向き直った。佐伯は何も話しかけてこない。それなのに、佐伯の息吹を嫌というほど感じてしまう。  佐伯は俺が死なないよう見張っているだけだ。自分が離れて、俺が死んだなら、良心が痛むから、傍にいてくれるだけ……。下心があるのは、俺だけ。 「おい」  佐伯に呼ばれ、背筋が伸びる。 「なに?」 「なにじゃないだろ? 煙。煙が出てる」  佐伯の指先を追ったそこに、フライパンの上で焦げるイワナがいた。慌てて火を消すが、もう遅い。皮がフライパンにくっつく以前の問題だ。  俺みたいだ。夢を叶えられない、役立たずな大人……。 「悪い。失敗した。他のもので」  ゴミ箱に捨てようとし、佐伯に腕を掴まれた。 「大丈夫。食べられる」 「無理しなくていいって」 「ほら、皿に盛れよ。一緒に食おう」   イワナに自分を重ねる。俺は何度も佐伯に救われている。捨てられるはずだったイワナのように、屑みたいな自尊心を、何度も。  あの日もそうだった。
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