捨てられないハンカチ

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 ラウンジで、ミネラルウォーターを飲みながら、窓の外の青空を見つめた。  雲が流れていく。  ゆっくり、ゆっくり……、ゆっくりと。  テーブルに頬をのせ、その流れを見守る。知らず、瞼が下がっていく。  俺はどうして、ここへ来たんだろう。親に逆らってまで、どうして……。  答えはわかりきっている。歌いたかった。音楽を学びたかった。夢に近づきたかった。そして、なにより、仲間が欲しかった。芸術を目指す人達の空気に包まれていたかった。  周りが騒がしくなる。講義が終わったらしい。 「手」  振り返ると、さきほどの青年が立っていた。 「真っ赤ですよ」  指摘されたとおり、右手は赤く変色している。青年はズボンのポケットからハンカチを取りだした。 「今日は一度も使ってませんから」  そう言って、こちらの手にハンカチを当て、解けないよう、強く結びつけた。 「返さなくていいから。ゴミ箱にでも捨ててください」  青年が微笑む。 「え?」 「それ」  青年がハンカチを指さす。 「あ……。ありが」 「じゃ」  礼の言葉を最後まで聴かず、青年は背を向けた。  大げさでなく、大学へ通う意義を失いかけていた俺は、青年の存在のおかげで、不登校を免れた。ここに通っていれば、また、あの青年に会えるかもしれない。  だけど、学科が違うからか、彼とは半年以上、会えなかった。  俺はその間に、新規のサークルに入り、路上ライブやネットへの映像配信、音楽講師のボランティア、幼稚園での演奏などを行い、金を工面するためにバイトも始めた。  青年のことを忘れたことはなかったが、このまま青年に会えなくともいいかとも思っていた。彼は俺をこの場所に引き留めてくれた、眩しい存在だったから。  触れられない、話せない、そういう、人なのに人じゃないような、大切な象徴だったから。
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