捨てられないハンカチ

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 大学を卒業したあと、一度だけ、友人と当時の話になったことがあった。友人がいうには、佐伯英治を見る俺の目は、恋する乙女そのものだったとのことだ。  友人は俺をホモだと馬鹿にはしなかった。自分もそういうのわかるぜ、と仕事のできる上司の話をしてくれた。 「また、会えるといいな」 「うん」  だが、その可能性はかなり低いと思っていた。  なぜなら、佐伯にとって、俺は記憶にすら残らない人間だからだ。  同人誌を買った日も、佐伯は俺を初対面の人間だと信じていた。  そんなものかと思おうとし、どうにかやり過ごしたのだが、四年生のとき、余裕ができたことで受講した一般教養で、幸島と佐伯と一緒になった俺は、佐伯が俺に関することを、いっさい覚えていないことに、今度こそ傷ついた。  彼は、俺がカフェに行ったこと、そこで水を溢したこと、同人誌を買ったことも、過去として留めていなかったのだ。  偶然、バーで会って、アパートに連れ帰ったあの日、本当は、佐伯が俺のことを覚えていないかもしれないという恐怖があった。  生前、幸島は、佐伯に対する俺のトラウマを、よく笑い飛ばしていた。  俺が働くバーに、しょっちゅう顔を出していた男は、ダイキリを何杯も喉に通し、べろべろのくせに、「佐伯がお前のことを忘れるはずがない」と言い切った。  俺が曖昧にかわそうとしても、幸島は引き下がらず、自論を展開させた。 「佐伯はお前のことを覚えている。なぜなら」  小説家として大成した大先生には申し訳ないが、佐伯は俺を必要としていない。必要がないということは、忘れても支障がないということだ。幸島は俺を落ち込ませまいとして、リップサービスをしてくれたのだろう。  佐伯にとって、ハンカチを誰かの手に巻く行為は小さなことで、佐伯にとって、俺はその他大勢の内の一人で、佐伯にとって、俺は……。
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