scene1:ER

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 女はひとりで泊まりにきていた。ここへはときどき、羽を休めに来るのだという。  朝湯をすませ、自室へ戻ろうと、手入れの行き届いた庭園を眺めつ廊下を歩いていた時だった。  低い庭木の、枝葉が重なりあって層をなしているその先に、女は静かにたたずんでいた。  濡羽色の長い髪を鎖骨の辺りでゆるく束ね、鉄紺地に(ひわ)色の縄模様が描かれた、シンプルな柄ながら着こなすのはかなり難しいだろう浴衣を着ていた。  女は、庭園に造られた錦鯉の池の際に立ち、白腕をたおやかに伸ばして、浮き餌を投げ入れていた。  池の鯉に餌を与えることは禁止されている。かつては時間制で給餌ができたが、とんでもないものを投げ入れた客がいて、たくさんの鯉が死んだ。以来、給餌は禁止せざるを得なくなった。  にもかかわらず、女は行為を止めない。おそらく常連客で、特別に許されているかなにかだろう、そう思った。  遠目ではっきり判じることはできなかったが、陽光に縁取られた、柔らかな笑みを刷った横顔は、唄を口ずさんでいるらしく、じつに楽しげだった。  チリン。
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