1・ふたつの月

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帰宅ラッシュの人々の波に逆らい、改札を 通り抜けると、空は茜に染まり、街灯に 明かりが灯り始めていた。 向かう先は、近代的な高層ビルが立ち並ぶ この界隈では珍しい、古風な外観の建物だ。 地上十階、地下二階。 明治時代末期に建設された建物は、 古めかしい佇まいの中に、堂々とした 風格を醸し出している。 いつものように玄関前を通り過ぎながら、ふと 横目でクローバーの描かれたシャッターを見た。 なぜか今日に限って、この場所で恭しく 迎えられたかつての記憶が甦る。 そんな遠い思い出を頭の隅に追いやり、足早に 通用口に面した路地を曲がった。 常に業界トップクラスに名を連ね、 押しも押されぬ地位を保つヨツバ銀行。 私はその本社営業部のビルで派遣の 清掃員として働いている。 高校を卒業以来、いろいろな仕事を 転々とし、今の仕事に就いたのは五年前。 地味だけれど仕事は性に合っていたし、 夕方から深夜にかけての勤務というのが、 何より私にとって都合が良かった。 最近ではベテランと呼ばれるようにもなり、 自分でもそこそこに経験を積んだと自負して いたというのに…… この夜の私は、ちょっとした、けれどもこの職に 就いてから初めてのトラブルに見舞われた。
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