花屋での出会い

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逃げ帰るように工房に戻ってきた佳音は、部屋の照明を点け、ホッと息を吐いてダイニングのテーブルの上に買って来た物を置いた。 やっぱり、ここにいるのが一番落ち着く。 一歩でも、ここから出て行くと、今日の出来事のように何が待ち構えているのか分からない。 そんなことに煩わされず、好きなものに囲まれたここに籠って、一人で静かに時を過ごすのが、佳音は一番好きだった。 魚屋さんのおじさんからもらったサーモンを使って、簡単にマリネを作る。この作り方も、ずいぶん前に魚屋のおじさんから教えてもらった。 佳音は、母親や父親から料理の手ほどきを受けた経験がない。自分で料理を作り始める年頃になったころ、既に家族関係は破たんしていた。それ以前も、父親はもちろん、仕事が生活の中心だった母親が、家で料理をしているところなどほとんど見たことがなかった。 〝食事は買ってきてするもの〟それが佳音の家の感覚だった。 見よう見まねで佳音が料理を作るようになったのは、こうやって自活をし始めてから。今ではずいぶんいろいろとできるようにはなったが、それでも料理に対する感覚はなかなか変えられず、下手には違いなかった。 サーモンのマリネを作っている最中、工房の玄関のドアのベルが鳴った。驚いて時計を見てみると、とっくに8時を過ぎている…。こんな時間に誰が来るのだろう…。 一人でいるのは気楽でいいけれども、こんな時には途端に怖くなる。
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