その日

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 その日本人大学生から初めてのメールが届いたのは三週間前。個人旅行でインドに来るのだという。  泰三は返信メールで歓迎の意を表し、個人ガイドを雇いたいと思った経緯を質問した。しかし初めの一通以来、大学生からのメールはなかった。ひやかしだ、いつものこと。泰三は他の仕事に忙殺された。  忙殺と言っても日本のように身を粉にして働くようなことはしない。  インド時間で働いている泰三にとっての忙殺とは、いつもは三時間かけて取っている昼休みを二時間に短縮せねばならないという程度だ。  それでも泰三にとって、それは大いなる不満の種だった。  泰三は働くのが嫌いだ。勉強も嫌いなのに大学には六年も通った。その間にあちらこちらを旅した。日本の全都道府県を巡り、中国、韓国、オーストラリア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ。バイトして金が貯まれば旅行した。古代文明発祥の地を制覇しようと最後に訪れたインドで、泰三は気付いた。  自分はインド人だったのだと。  インド人は皆、自分の権利をどこまでも主張し、勤勉などという言葉を知らず、時間にルーズで、そしてそれを大笑いして楽しんでいるように見えた。自由だ、と泰三は思った。   これこそが自分が求めていた自由なのだと。  観光ビザが切れるまで泰三はインドの路上で生活し、出来得る限り言葉を覚えた。ビザが切れたら日本に帰り大学を辞め、ありったけの金と就労ビザを持ってインドに戻った。デリーの日本人向け旅行会社に働き口を得て、それ以来インド人として生きている。
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