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青年にアンケート、というより問診表のような用紙を渡し記入させる。
氏名、年齢、住所、ビザの種類、渡航目的、希望するツアーの種類、エトセトラ、エトセトラ。
全部書き終わるまでに軽く三十分はかかる代物だ。そんな面倒くさいことインド人なら文句の十や二十は出てくるが、日本人は皆、文句も言わず丁寧に書く。その間に、泰三は青年を観察した。
身なりはみすぼらしいが姿勢よく、真顔でいても微笑を浮かべているように見える。育ちが良さそうで人や動物に好かれそうだ。
親切で爺婆ガキんちょにはとことん尽くすタイプ。
金払いはかなりいいだろう。
あたりを付けた泰三はビジネス用の笑顔を浮かべて青年から用紙を受け取る。書いてある情報はほとんど読まず、青年に訊ねた。
「で? 個人ツアー希望とありますが、どちらへいらっしゃりたいんですか?」
「原始的な仏教の説法を見たいんです」
泰三は二、三度、目をしばたたいた。
「はあ?」
「ブッダが説法をしたように、今もそのように教えている寺に行きたいんです」
「つまり、ブッダが初めて説法したところに行きたいんですか? ヴァーラーナシーに?」
青年はにっこりと、穏やかに笑い首を振る。
「いえ、仏蹟ではなく現在、まさに今も人が集うところに行きたいのです」
「インドの仏教寺院に行きたいんですね?」
青年はにっこりを崩さない。まるで微笑みと共に産まれてきた人のように。
「普通の寺院ではなく、古代と同じようなスタイルの寺に行きたいんです」
泰三は青年の言うことが理解できず、しかし目的地は絞らねばならなかった。
「で、出発はいつごろをご希望ですか?」
「いつでも。今からでもいいですし」
泰三は室内を見回して大きく両手を広げた。
「ご覧の通り当社は現在、社員が出払ってまして。ご案内できるのは早くて三日後ですね」
青年は笑みを深くして頷いた。
「では、三日後にまた来ます。よろしくお願いします」
深々と頭を下げ青年は出ていった。泰三はぽかんとその後ろ姿を見送ってアンケート用紙に目を落とした。
「神林聖夜」
芸名のような華やかな名前は青年の密やかな微笑には似合わない。そう思いつつアンケート用紙をその辺に放り出して青年の事は忘れることにした。
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