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「あのう、先生。いったいあの患者は何だったんですか?」
ようやく一日の激務から解放された私は帰りがけにどうしても気になることを先生に聞いた。私がカルテを届けに行った時、先生が診ていた患者についてだ。
「ん?あの患者?」
先生はわざとらしく首を傾げていたが、すぐに観念したようだ。両手をあげて、やれやれと首を横に振る。
「まったく。そんなに睨まれちゃ答えないわけにもいかないか」
「いえ、別にそんなつもりじゃ……。だけど、あの患者はちょっと異常でしたよ。彼女の過去にいったい何があったんですか?」
私が問い詰めると、先生は胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。白い煙がくねくねと尾を引いて宙を泳ぐ。
「ふぅ。まあ、君は最近入ってきたから知らんのだろうが、ここで働いてるやつはみんな知ってるぜ。過去にかれこれ何十回も診てきたからな。だけど、その度にあの患者は記憶を忘れるんだ。そして、彼女は6歳の時に実の父親を殺してる。だから、いろんな施設をたらい回しにされたあと、ウチで預かってるんだ」
「え……?でも彼女、途中までは里志くんとの思い出を楽しそうに語ってたじゃないですか。初詣とか修学旅行とか。それに虐待していた父親を殺したのも里志くんだって……」
しかし、先生は私の疑問など想定済みだと言わんばかりに口から白い息を吐き出す。
「実はあの話に出てくる里志くんってのは厳密には存在しないんだ」
その事実に私は驚愕した。だとしたら、あの里志くんはいったい誰なのだろう?
「里志ってのは殺された父親のほうの名前だ。本名は神崎里志。ほら、あの患者の名前は里花っつったろ?子供に名前をつけるとき、両親の名前から一文字ずつとるのはよくある話だ」
では初詣や修学旅行の思い出は彼女が生み出した幻想――要するに、自分の記憶を都合のいいように改竄したということか?
……でも確かに言われてみればそうかもしれない。だけど、それでも私は一つ腑に落ちないところがあった。
「じゃあ、あの患者は父親殺しの罪を被せるためだけに里志くんという幻影を作り出したということですか?では何故、彼女は今も謝り続けるんです!?」
私はそれがどうしても知りたかったのだ。人間は心的ショックを受けると、自己防衛反応として記憶喪失に陥ることがある。解離性健忘というやつだ。つまり、記憶を失うこと自体はそう珍しくはない。
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