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先生。カルテ。
どうやら、私の目の前にいる怪しい男は医者のようだ。そして、どういうわけか私は何かの病を患っているらしい。
男はなおも変わらず神妙な面持ちで、私に語りかけてくる。
「神埼さん。あなたは今、過去の記憶を失っている。だけど、怖がらなくていい。今から私と一緒に過去の記憶を一つずつ思い出していこう」
そう言って、男は優しく口を綻ばせた。
だけど私は正直そんなこと、どうでもよかった。そもそも出し抜けにそんなことを言われても困るし、過去の記憶を一緒に取り戻す?
この男は何を言っているのだろう。私は至って正常なのに。
現に私はこうして、自分に与えられた使命を今も忘れることなく全うし続けているではないか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
男は返ってくるはずのない返事を心なしか待っているようだった。しかし、それがすぐに無駄だと悟ると、カルテにペンを走らせる。
そして……。
「ではこれから君には退行催眠をかける。私がこれから十から一までを数えるから、それに合わせて君は頭の中で階段を一段ずつ降りていくイメージをするんだ。そして下まで降りると、そこには扉がある。きっとそこに君の欲しい答えがあるはずだよ」
はっきり言って、男の言っていることの大半は理解出来なかった。だけど、男の言うとおり、そこに私の求める何かがあるとするならば、私はそれを知りたい……。
「じゃあ、数えるよ。十……九……八」
男は唐突に、子守唄を歌うかのような心地よいリズムを刻みながら私を深い眠りへと誘(いざな)う。私の両瞼が段々と重たくなっていくと、意識も遠くなっていく。
「里志くん」
私は眠りへと落ちる直前、その名前だけが脳裏に浮かんで、力強く扉を開けた。
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