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第一章 黒津の清次
1・
クラブやサロン、果てはおかまバーまでがひしめいているビル街、その一角にある穴の様に開いた空間を庭と呼べるなら。今夜はその庭で、奥に建つ細長いビルの三階にある【おかまバー・志緒】の下働きの女が、秋刀魚の炭火焼きの準備に追われていた。
白い割烹着に手拭いを姐さん被りにした、昭和レトロな姿の年齢不詳の女。
何時も人目を避けている伏し目がちの彼女は、おかまバーの志緒ママが地下鉄のホームで拾って来た、宿無し女だ。
駅の男性用トイレに髪を掴まれて引き摺り込まれ、殴られ蹴られしていた女を助けて遣ったのが、縁の始まりだった。
「DVの恋人から逃げようとして捕まり、殴られていた」と聞いては。江戸っ子の志緒ママには、捨てては置けない話だ。
おかまバーの下働きに雇ってやったばかりか、安アパートを見つけて来て宿の世話までして遣った。
名無し女は、名前をしつこく聞かれて。仕方なく夏子と名乗った。
深くは聞かなかったが、どうせ偽名だと解っている。
免許証も銀行の通帳も、何も持たずに転がり込んできて三日目。男の出かけた隙を見て持ち出して来たらしい荷物の中にあった免許証を、こっそりと志緒ママがのぞき見たところでは。
名前の欄には、樋口令子。歳は二十七歳らしい。住所は千葉県になっていた。
話すように促したから、ボツボツと話し始めたところによれば。両親が死んで一人ぼっちになったから、東京に出て来たようだった。
「東京に憧れていたんだもの」、ボソッとそう言った。
たまたま知り合って、一緒に住み始めた男がDV男だと気付いて。慌てて逃げ出して来たと言う。
「男の部屋から免許証と印鑑、銀行の通帳をやっと持ち出して来た」と言って、泣いた。
「仕事はどうしてたの。アンタ」
志緒ママに聞かれて、「男に小料理屋の手伝いをさせられていた」と言った。
「その前よ。千葉では何をしていたのよ」
また聞かれて。高校を出てからずっと、両親が経営していた民宿を手伝っていた。父親が料理をし、母親が客の面倒を見て、令子は雑用を全部引き受けて頑張っていたと答えた。
「疲れる仕事で、ちっとも楽しくなんかなかった」、と溜息をつく。
とにかくつまらない容姿の、つまらない女だったが。料理は上手だったし、今時の女には珍しく魚もさばいて自分で料理するから、もう三ヶ月余りになるが店で使っている。
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