第三章  放たれた刺客

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 もし志緒ママが夏子を、「姐さん」と呼んでいたら。女ももっと、夏子を警戒しただろう。  だが、習慣は恐ろしい。  志緒ママは夏子と二人の時は、親しみを込めて、「夏ちゃん」と呼ぶ。だから近くのクラブのホステスか、ママだと思った。  夏子が割烹着を脱いだ時、着物を見てママだと判断した。  女は、五十万円くらいはする結城紬を着ている。なかなか粋な着物だ。  余談ながら。清次が勝手に選ぶ着物は、何時も高価で粋。然も。それ以外には着る物を許して貰えない夏子だ。  普段着にしている絣や縞木綿も、そうとうお高い値段らしい。  きっと此の儘では、「マタニティドレス等も清次が勝手に選ぶ」、と今から分かっている。呆れた話だ。  さて、料理番の女に話しを戻そう。  「お早うございます。志緒ママ」  低い掠れた声で挨拶した女が近くを通り過ぎた時、夏子の肌が女が発する危険な匂いを感知した。  マトリの潜入捜査中に、何度も嗅いだ匂いだ。  この危険を教える匂いを感知する能力は、野獣達に二回目に襲われて玩具にされた後で彼等から逃げた時、夏子の中に目覚めた力だった。マトリでも、特異な能力だと評価が高かった力。  夏子は、潜入捜査官時代に身に付けた、気取られない自然さ を装って女を観察し続けた。  「夏ちゃんが折角来てくれたんだから、プレゼントをあげるわ」  志緒ママが、店の棚の奥から細長くて黒い紙箱を取り出すと、無造作に差し出すから、何だろうと思った。  「お客さんのドイツ土産よ。良かったら使ってよ」  箱の中身は、銀色に輝くペティナイフだ。  「凄い!志緒ママ。シェフィールドのペティナイフじゃ無いの、これって高いのよ」  夏子の感動と興奮の声に、料理番の中年女が独り言を呟いた。  「やっぱり、何処かの小さなクラブのママか」  その場を離れると、冷蔵庫をチェックしに行った。  志緒ママの帯に挟んだ携帯が、着信を告げている。  ドアの外にそっと出て誰かと話しているが、夏子はそれどころで無い。  夏子は、料理番の中年女から目を離さなかった。女が大きなお釜を持って下に降りて行ったので、窓から庭を見てみる。  庭の隅に、釜戸が設えてある。お釜をその上に置くと、引き返して来る。  今度は、店の厨房から砥いだ米と、水の入ったペットボトルを持って出て来るから、声を掛けてみた。  
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