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四月に入ったばかりで、桜はまだ固い茶色の蕾を見せているだけだった。これらの桜は、療養所に入っている人達を慰めるために、建物の周辺を囲むように植えられたものだ。五十本はあるだろう。七部咲きから満開になる頃には、この村の人達だけでなく、遠くの町の人達も花見に訪れる。
明るい月明かりの中で、ふと自転車を止めて、僕は連なる桜の木々をじっと眺めた。桜の蕾は細い枝を覆うように点々とくっついている。そして、咲く時期を今か今かと待っているような、花咲く日を夢見ているような、そんな静かな無言の興奮も感じられた。
僕は何だか無性に桜の蕾が憎らしくなった。八つ当たりがしたくなった。療養所からもれ聞こえてくる陽気な歌謡曲や、笑い声の混じった楽しそうな会話が、よけいに僕の気持ちを逆なでした。異様なほど桜の木が憎らしくなってきたのである。
『きれいになんか咲かせてやるもんか! みんなにチヤホヤさせるもんか! きれいに咲くと思って見に来るやつらを失望させてやる!』
僕は自転車をその場に置くと、雑草が茂った緩やかな斜面にがさごそと分け入り、古い木の枝を見つけた。それは以前剪定されて、そのまま捨て置かれたものかもしれなかった。古枝は持ってみると一メートルの長さはあった。
僕はそれをむやみに振り回し、近くにある桜の枝からばしばし叩いていった。叩かれた枝は大きく揺れて、せっかくついた小さな蕾を次々と落としていった。叩く衝撃が腕にびんびん響いて痛くなっても、僕は調子づいて狂ったように叩き続けていた。
そのとき後ろの方で激しい息遣いとともに、女の子の押し殺したような声がした。
「やめてちょうだい、やめてちょうだい、お願いだから!」
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