一章 出会い

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昼休み時間、会社の花壇の前にかがみ込み、俯きながら手元で何かをいじっていた女性が、誰にともなくこう言った。 「わっ、可愛い!ねぇ、この虫、何て言うか知ってます?」 偶然そこを通りかかった雄二は、話しかけられて棒立ちになった。見ると、自分の会社の制服を来た女性が雄二に向かって片手をつき出している。 「何、それ…」 女性は丸顔の、どこもかしこもはちきれそうな顔を更に膨らませて言った。 「カメムシです!カメムシ!」 雄二は女性の手の中を恐る恐るのぞき込んだ。黒い甲羅をした、何の変哲もない小さな虫が手のひらの中にいた。雄二は思わず叫んでいた。 「それがどうかしたの?…臭いっ!」 女性は頬を膨らませ、表情を一変させて雄二を睨み付けた。 「あなたがカメムシを悪く言うから、カメムシは怒ったんです!」 (おいおい、何だよ。一体…)だが、その時雄二は思った。 (あれ?可愛いじゃない?この子、意外と…)それは彼自身にも思いがけなく、通り魔的な感情だった。 彼女は会社の総務の女子社員で、土屋萌と言った。その後度々お昼休みに、雄二は彼女と出会った。彼女はいつも弁当を一人で食べ、その後花壇の回りの虫を一人で観察しているという風変わりな人だった。彼女は雄二に会う度に、「今度一緒にお昼ご飯食べませんか?」と誘ってきた。開けっぴろげで悪びれない態度に、いつしか雄二もその気になった。 数週間後には、雄二は萌と昼ご飯を共にしていた。と言っても、彼女の作った弁当を二人で食べるという地味なものだったが。萌の作る弁当は素晴らしかった。一つ一つ手間をたっぷりかけた懐石料理風のものだった。雄二は内心喜んでいた。一人暮らしと言う事もあつて、こんな手間のかかる料理を久しく口にしていなかった。どの料理も味わい深く、雄二を豊かな気持ちにしてくれた。また萌は萌で昼食後の虫の観察を何よりも楽しみにしていた。石の下や葉の陰に入る小さな昆虫を、飽きることなく眺めるのが日課だった。 「なんて可愛いの…!」 ため息混じりにそう呟く。 「そうかなぁ?」 「そうよ。こんな可愛いものが、他にある?」 「あるじゃない。幾らでも」 例えば、女の子とか子供とか、犬とか猫とか…と言いかけてすぐに言葉を飲み込んだ。
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