第1章

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 クスリと微笑んだ嶋野裕子に僕は返す言葉もなく、やはりこんな可愛い人と一晩を共にした事実について何も覚えていない事に後悔の念を募らせた。  「まぁ、良いか」  恐らく昨晩は見惚れ、遂には見飽きたかも知れない嶋野の胸を僕は一瞥した。  「朝ごはんを作るよ。募る話もその後で」  古めかしい漫画やアニメのキャラクターのように、アナログな投げキッスに戸惑う僕を他所に嶋野はショーツだけで隠されたお尻を向けると、タンスの中を物色し始めた。  人魚。と云う言葉に僕の記憶の中、思い出の中の何かが引っ掛かった。ボンヤリと昔の出来事を検索する僕の向こうで、嶋野は淡々と朝食の準備をしていた。意外にもテーブルに並んだのは、純粋な和食の数々。そう言えば、祖父母への連絡はどうしたのだろうか。と僕は気付いた。  「さ、頂きましょう」  僕は両手を合わせると、黙々と食事を口に運び始めた。テレビの有り触れたニュース番組の淀みない風景が在り難いほどに沈黙の続く食卓である。  「昨日は勢いでヤっちゃった訳だけど」  「ぶっ!」  唐突だ。臆面もない報告に僕は吹き出した。  「可愛い年下の筆おろしだと思ってるから。だからと言って、誰でもって訳じゃないから安心して」  何を安心して。と言う事なのだろうか。ついさっきまで童貞だった自分には想像も出来ない、経験豊かな女子の発言と想像する以外に冷静さを保てそうになかった。  「で、昨日の話に戻るんだけど?」  何処か懐かしくも感じる味噌汁を飲み干そうとした僕に嶋野が然も当たり前の話題だと言わんばかりに話をふってきた。  「君も人魚を見た事があるんでしょ?」  「あ――はい?」  そう言えば、昨日の懇親会の席で嶋野が人魚を探しているなどの話を耳にした記憶がある。けれど、僕が見たのは半魚人だ。と釈明しようとした僕に、「良いのよ」と告げた嶋野が何故か人魚の蘊蓄について語り始めた。  「日本に於ける人魚って西洋の流れを組んで色々と変わってるのよ」  アジの開きを突きながら嶋野が、「見て」と言って促した先には壁に掛けられた何枚かの絵が飾られている。下に誂えてあるカラフルな収納ボックスの中には文化圏を問わずに様々な美術史や宗教の本などが仕舞われていた。よくよく見れば女子の部屋には似つかわしくない、おどろおどろしい画風の絵もあった。  「人魚ってどんなのをイメージする?」
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