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俺は混乱していた。もう一度近くを見回すが、やはり声の主は見当たらない。すると、オッサン声は言った。下や、と。
「下?」
「よう。暇そうにしとるなぁ」
錦鯉が俺を見上げて口をパクパクとさせている。俺は眼をパチパチと何度も瞬かせて、やがて橋の上でうずくまり、何とか足元――つまり、橋の欄干の下あたりに誰か居ないかを確認しようとした。……いや、無理だ。忍者でもない限り、橋の下にはひそめまい。だが、忍者の方がまだ現実的だ。
「最近、よう見る顔やんけ。羨ましいわ、その日その日で飯にありつかなあかんワシらと違って、えらいええご身分やんけ」
また橋の下から――いや、池から、だ。声がした。オッサン声だ。見ると、やはりあの鯉が口をパクパクさせている。
「マジで?」
「何がや」
「鯉?」
「だからなんやねん」
「動画撮っていい?」
「ええけどこのご時世や、造りモンとか難癖つけられるだけやで」
鯉はどこか馬鹿にしたように言った。その冷めた口調に俺は少しむっとして、立ち上がり、橋の欄干から身を乗り出すようにして錦鯉と視線を合わせた。
鯉は相変わらず――しかししっかりとこちらを見上げている。疑似餌が半分姿を見せているようにも見えるが、どうやら彼が声の主であることは疑いようのない事実のようだ。
人生というのは何が起きるか分からない――俺はそんなことを考えていた。まさか鯉が。
「で、どないしたんや」
「えっと、どないしたとは?」
「どうしたんや、って聞いとるんや。自分、何かえらい辛気臭い感じやんけ。わしで良かったら話くらい聞くで」
実に流暢な関西弁だ。俺は混乱しながら――本当に混乱すると逆に身動きが取れないことを俺は思い知った――鯉に言った。でも。
「でも、何や? 鯉に聞いてもらうのが嫌か? でも自分、こんな場所に平日一人で来とるってことは話し相手も居らんねやろ? じゃあわしが聞かんかったら誰に話聞いてもらうんやって話で。ちゃうか?」
「はぁ、まぁ」
気味の悪いくらいにペラペラと、しかもこちらの事情を察している鯉だった。俺は尋ねた。
「でも、何で聞いてくれるんです? 暇してるから?」
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