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私は目の前の男を見た。彼は自分に送信された音楽とは別のものを口ずさんでいた。本人は意識していないだろうが、おそらく幼い時によく聞かされたであろう童謡だった。耳から入る音楽に含まれた指示を確実に遂行しながらも、本能が幼い時の楽しかった思い出を浮かび上がらせているのだろう。
――なぜ、過去の思い出なんかを――
私は困惑した。
イヤホンから入ってくる音楽と混じり合った老人の歌声は、一種異様な音楽になっており、悲しさをまき散らしていた。
私は男の向こう側に目を移した。今度は女だった。彼女は泣いていた。目元や口元は笑っており、きびきびと行動しているので遠目には楽しそうに見えるのだが、止めどなく涙を流していた。おそらく彼女のどこかに残されていた感情が涙を流させ、音楽が表情を造らせているのだろう。表情と感情が完全に分裂していた。
彼女の涙は私には冷たそうに見えた。あの涙は、指示が終わるまでずっと流れ続けるのだろうか。それが枯れる時はどんなときなのだろうか。
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