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※プロローグ
「……また逃げられたか」
青白い月光に照らされた男らしい美貌が、苦々しげにそう吐き捨てると、鋭い眼差しで夜空を見上げた。
スラリとした長身に、上質のスーツを身につけた美貌の青年は、右手にだけ黒の指無しの革手袋をはめていた。
硬質な雰囲気の青年の姿の中で、その右手の皮手袋だけが何故だか禍々しく感じられる。
「今度こそ、追い詰めたと思ったのだがな……」
どこか悔しげに右手で拳をつくった青年は、痛ましげな眼差しで周囲を睥睨した。
この場所には、このどこか浮世離れした雰囲気をまとうその青年の他には、生きている者の姿は一人もいない。
そう、『生きている者』の姿は……。
「まだ、そんなに遠くには行ってないはずだが、はたして間に合うか?」
まるで、何かの気配を探るように瞳を眇めて耳を澄ませた青年は、数秒後には大きく瞳を見開くと、忌ま忌ましげに唇を噛んだ。
(……まったくいつもながら逃げ足の早い奴等だ。この距離ではもう、追いつくのは無理そうだな)
このところ、いつもあともう少しと言うところまで追い詰めては逃げられてばかりだった。
相手の逃げ足の早さにも腹が立つが、それ以上に己のつめの甘さに苦い怒りがこみ上げる。
「今月だけで三人目か。もうこれ以上の犠牲者を出すわけにはいかない……」
沈痛な表情で見下ろした足下には、夜目にも鮮やかな真紅の血の海……。
悽惨な血の匂いに、僅かに秀麗な顔を顰めながら、青年は懐から取り出した一輪の純白の薔薇をその場へとソッと置いた。
「せめてもの手向けに……」
哀れな被害者に向けて、静かに黙祷を捧げた後、青年はその場からヒラリと身を翻すと駆け出した。
何故か、足音はまるで聞こえない。
まるで、背中に羽でも生えているかのように、青年は足音一つ響かせることなくその場を後にしたのだった。
青年の去った後には、不吉な真紅の海と、その海の真ん中で純白の花弁を血で濡らした一輪の薔薇と、物言わぬ骸が一体、その場に残されているだけだった。
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