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弁明するまでもなく、わたしとカミュを結びつけ、あまつさえそこからわたしの殺人の動機を探ろうとしても、答えに近づくことは決してない。たとえば、フランス人でもないわたしが「C'etait a cause du soleil」と原文のまま引用したのであれば、関連付けようとしても頷けなくはないけれど。
みなが一様にわたしと『異邦人』を結びつけたがっている。だから――まさにこの「だから」という接続詞こそがわたしと彼らの間の相互理解を妨げている――というわけではまったくなく、わたし以外の大勢には理解できない理由から、わたしは『異邦人』を読んでみることにした。
わたしが行った殺人の事件(とわたし以外の人が見做している事象の一つ)後に『異邦人』を読むことになったのは、単なる結果論に過ぎない。わたしが『異邦人』を読もうと思ったその日の午前十一時二十三分に、わたしのお腹が鳴らなかったのならば、わたしは『異邦人』を読むことはなかっただろう。もちろん、その翌日の夕方ごろに鍵の締まる音がすれば、一日遅れではあっても読む気にはなっただろうけれど。
わたしのこの動機を、大半の人は理解できないだろうことは知っている。わたしにとっては確固とした結びつきによる明確な動機なのだけれど、どうにも連中にはロジックエラーとして処理されてしまうようだから。
この取るに足らない思考の垂れ流しも、あくまで多くの人がそういう記述の仕方をしているから、それを模倣しているだけにすぎない。おそらく、わたしがわたしのセオリーをもって物事を記述したとすれば、大半の人間には読み解くのが至難な文章の羅列になるだろう。そうしても良かったのだけれど、そうしなかった。
ではなぜ、わたしが彼らの記述形式をなぞっているのかといえば、今朝起きがけに目にした色がオレンジ色で、まばたきの仕方を意識したからだ。無論、この理由がわたし以外の人にとって事由になっていないことは承知している。
理解されないことを承知で動機を記述したのは、理解してもらえるとは思っていないけれど、誤解を招きたいと思っているわけでもないからだ。これに関しては、連中にも共感を得られるだろう。
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