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ただし、不用意にわたしが「共感」などと書こうものなら、哲学者気取りの衒学者やナニナニ主義者らは「彼女は、何もかもが私たちとその社会と噛み合わないわけではない。もしも何一つ噛み合うものがなかったら、彼女は二十代を迎えることなく、もっと早い段階で何かを起こしていただろう。 それこそ他殺に限らず、自殺とか」とかなんとか宣いかねない。
もちろん、そんなことはない。なぜなら、わたしはそうではないから。わたしは何も周囲との齟齬によって精神を病み、その蓄積の末に人を殺したわけではない。さっきも述べたように、「太陽のせい」にほかならない。
さて、『異邦人』を読んでも、わたしはこれといった情動体験をすることはなかった。わたしに『異邦人』を渡してくれた弁護士が、それを読んだわたしがどういった反応を取ることを期待していたにせよ、わたしはムルソーに共感することもなければ、カミュの思想に傾倒することもなかった。なぜなら、誰もが理由付けをしたがっている、ムルソーとわたしが殺人に至る過程は決定的に違うものだったから。
彼は人を殺した理由を問われて、「太陽のせい」と答えた。けれど「太陽のせい」と、その後に続くであろう「殺した」という言葉の間にはれっきとした理由があった。わたしには、それがない。わたしの場合は「太陽のせい」の後に「だから殺した」という言葉が隙間なく記述される。あるいは、わたしが『異邦人』を読み解けていないだけで、ムルソーはわたしと同じだったのかもしれない。その可能性はありえる。なぜならわたしは、カミュもムルソーも異邦人も、それらすべてを内包したこの世に馴染めなかったヒトなのだから。
まあ、カミュ本人がムルソーの動機について解説している以上、わたしと本質的に違うことは――少なくとも連中の言うところの論理という秤に乗せて比較する限り――明らかだ。そこには、論理的に解説されてしまう余地があるということなのだから。ムルソーの発言には必然性があるし、筋の通る論拠がある。
わたしにも論拠はある。それが、わたし以外の多くの人たちにとってはふざけているとしか思えないというだけで。わたしの動機と行動の間には、その余地がない。すくなくとも、彼らの論理においては。
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