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わたしとて喜怒哀楽といった感情を持ち合わせている。けれどそれは身体の、脳の引き起こす電気的な作用に過ぎないという事実は、わたしだけが知っている世界の真理というわけではない。心なる抽象概念があたかもあるように、身体が振る舞っているだけだと。
そして、その部分に関して、わたしは連中と何ら変わることはない。誤解を恐れずに極限まで噛んで含めて言うのならば「価値観の相違」という一言でわたしの殺人の動機を納得してもらえるはずで、それが理解できない彼らの方に問題があるとしか思えない。
無性に苛立っている女性を捕まえて「どうしてそんなにイライラしているの?」と聞いてみる。女性がためらいがちに「生理だから」と言えば納得してもらえるだろう。
それと同じように、わたしに「どうして面識もない人を殺したの?」と聞いてみてほしい。わたしはなに食わぬ顔で「太陽のせい」と言うから。ただ、それでも納得してもらえないということは経験則から知っている。だからわたしは、先に述べた部分を持ち出してさらにこの話題を敷衍することを試みる。
生理も殺人も、身体的なあるいは脳的な作用に収斂できるのだと。どっちも脳から発せられた命令に体が反応しているだけではないかと。極論じみた暴論としか聞こえないのは納得できるし、反駁の一つとして自由意思を挙げた人(0.2秒の自由意思がイエスかノー以外の複雑な判断をできるのだと思っているらしい)が言っていたことに対して、脳科学や生理学を知らないわたしには(彼らにとっての)理路整然とした反駁はできない。
なぜ、わたしは『異邦人』を読んだことも聞いたこともなかったというのに、誰も彼もがムルソーと結びつけたがっているのか。その答えは明々白々。
人は、物事にロジカルな原因と、それに則った結果を求めたがる。
それはよく知っている。わたしだって、その定理が支配的な人間社会の中で生きてきたのだから。
それはもう仕方のないことだ。多くの人が1+1=2の証明に眉をひそめる程度には、彼らが理解できないわたしの殺人に至る動機は、彼らにとってはそれこそ所与に等しいものとして映りかねないのだから。
結局のところ、駄弁という形を借りて滔々と垂れ流してきたわたしの事実も、彼らにとって気持ち良く都合の良い理由に上書きされるだけなのだろう。わたしの死んだ後の世界で、わたしのあたり知らぬところで。
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