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陽が昇り始めた江戸の町を、与四郎が歩いている。
お沙のいる家へ向かっている。
昨晩、ひとの髪で筆をつくることを思い立ってから、ろくに眠れなかった。
すぐにでも実行してみたいと思った。
この思いつきがうまい方向に進めば、吉井が死んでしまったいまでも、なんとかやってゆける。
だが、もし駄目だったら――
「とにかく、いまはやってみるしかない」
与四郎は自分に言い聴かせるように呟いた。
並ぶ家々からは、朝飯の良い匂いが漂ってくる。
その匂いにつられたのか、与四郎の腹が鳴った。
江戸の町に、朝が訪れていた。
*****
与四郎が帰ると、お沙が朝飯の支度をしていた。
「おかえりなさい。こんなに朝早く、どこへお出かけになっていたのですか」
「髪結い床ヘな。良吉のところだよ」
「あぁ、やはり良吉さんのところでしたか」
お沙も、良吉のことは知っている。
「話をつけてきた。切った髪を分けてくれるそうだ」
「そうですか。――与四郎さん、本当に髪でつくるおつもりですか」
碗に飯をよそいながら、お沙は訊いた。
「動物の毛でつくれるのなら、ひとの毛でもつくれそうではないか」
「ひとの毛なんて、あまり良い気はしませんが――」
「手段を選んでいる場合ではないよ、お沙。やれることから手をつけていかないとだ」
「えぇ――」
「安心しろ、お沙の髪をもらおうなんて思っちゃいないよ」
「―――」
「おれは、飯を食べたら良吉のところへ手伝いにゆく。そうだお沙、忍はどうだった? 昨夜、訊きそびれてしまった」
与四郎の言葉に、お沙の手が止まる。
脳裏に、忍の見開かれた眼が浮かぶ。
「お沙?」
「あの、えっと‥‥変わらずでしたよ、忍さん。動きまわることはできなくても、起きあがってご飯を食べるくらいならできると思います」
忍との間に起きたことは言わなかった。
吉井が亡くなり、忍は気を病んでしまっているからだと、お沙は思った。
「そうか。吉井のあとを追って命を絶たれても困るからな。お沙、もうしばらく忍の面倒を見てやってくれ」
「――判りました」
信頼の眼差しを向けてくれる夫に、お沙は繕って微笑んだ。
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