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三、
穏やかな与四郎とお沙の生活は、突然、呆気なく崩れた。
筆の材料を調達してくれていた、誼みの吉井という男が死んでしまった。
この頃の江戸では、ひとの髪や身体の一部が切り取られるという奇妙な事件が多発していた。
被害者は若い娘ばかりであったが、事件が相次ぐうち、男も襲われるようになっていた。
すべて同じ人間の仕業なのか、違う人間の仕業なのかは判っていない。
辻斬りのようにひとを襲い、髪を切ってゆく。
それだけでなく、手足、鼻や耳、臀部など身体の一部を切り取ってしまう――このような事件が男にも及んでいる。
吉井はこの餌食になってしまった。
筆の材料を調達しに、いつものように出かけた吉井。思うように調達できずに、困ってしまった。
必要な量が手に入らない。
方々を飛びまわり、ようやく入手することができた。夢中で探しまわったのである。
満足した吉井であったが、陽が暮れ始めていることに、しまった、と思った。
急いでも、家に着く頃には月が天高いところまで登ってしまう。
遠いところまで来てしまっていた。
どこかに宿をとろうにも、余分な銭は持ってきていない。
吉井は急いで帰ることにした。
家では、妻の忍が夫の帰りを心配していた。
帰りが遅い――
その晩、吉井は帰らなかった。
吉井は右手首を切り落とされた屍体で発見された。吉井の家からそれほど遠くない、とある河原であった。
その身体の近くには、彼が必死に探し、調達した筆の材料が散らばっていた。
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