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第一章 夫婦
一、
雨が降っている。
江戸の町はとても静かだった。
血気盛んなこの町が、この日は厭に静かである。
聞こえてくるのは、雨が地をうがつ音ばかり。
まだ昼間だというのに、ひとのいる気配がしない。
筆職人の与四郎の家は、雨漏りしていた。天井から滴ってくる雫を、小さな桶で受ける。小さく水の跳ねる音が家のあちこちで聞こえてくる。
いま、この家に主の姿は無く、妻のお沙が独りで針仕事をしている。
お沙は美しい女である。
結いあげた髪は黒く艶があり、ひと房ふた房ほつれているのが、妙に色っぽい。
二十歳を幾つか過ぎた、貞淑な女だ。
雨空で辺りが暗いため、行燈に火を灯す。
お沙の手元を照らしている行燈の火が揺らいだ。
与四郎が帰ってきたのだ。
長屋の戸を開けて、与四郎が家の中へ入る。開いた戸から雨風が吹き込む。
いつのまにか、雨足が強くなっていた。
お沙は箪笥から手拭いを一枚取り出し、戸口までいって、与四郎を出迎える。
冷たい風がわだかまっている。
「おかえりなさいませ」
か細いが、凛とした声が響く。
「――ああ」
与四郎は持っていた蛇の目傘を手近に立てかけると、着物や髪を濡らしたまま家の奥へとあがり込んだ。
その後をお沙が追い、
「与四郎さん、身体を拭いてください――」
背中に声をかけた。
「いい。風呂にゆくから、着替えを用意してくれ」
「はい‥‥」
返事はしたものの、お沙はしばらく動かなかった。
「お沙?」
「あ、いえ――」
与四郎の声に、お沙は慌てて動く。
「判って、いるさ」
ぽつりと与四郎が言った。お沙が止まった。
「―――」
お沙は黙っている。
「もう、戻れないんだよ」
静かに、言い聴かせるように言った。
お沙は小さく頷いた。
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