今年の牡丹は良い牡丹

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 松本ヘキは尋常小学校に上がる前から、白い着物を着た女を見ていた。近くの乾物屋へ行く道で遊んでいるときや庭の隅にある土蔵の陰など、その女はヘキがひとりでいるときに現れる。他の大人とは違うと子ども心に思っていたが、近づいてくるわけでも、話しかけてくるわけでもない。あるとき無防備な子どもの好奇心で、ヘキの方から近寄ってみた。 「今年、の、牡丹…は、よい牡丹…」  女はぶつぶつ呟いていたが、当時ヘキは何のことだか分からなかった。ましてや唄だとは思わない。ヘキの家の周りにはその乾物屋しか家が無く、その家に子供はいなかったので、ヘキは一人で遊ぶことが多かった。小学校に入った年に、校庭で女の子たちが輪になってその言葉を唄ってるのを聞いて驚き、何の唄かと尋ねると、「鬼ごっこするときの唄」だという。 白装束の女は唄の続きを呟きながら、ヘキに近寄り顔を覗き込んできた。 「おんしゃーんとこは、どっちの牡丹だ?」  女の目が食い入るようにヘキを見つめていた。今まで青白かった女の顔が、ドス黒く変わった。それまではどこか呆けてまだ柔らかに見えた表情が、目が釣り上がり、鼻と口は顔の中央に寄ったような気がした。口は微かにしか動いていないのだが、何故か言葉ははっきりとヘキの耳に響いた。 「おんしゃーんとこは、このえ、か、みだれじきか」 そこで女の目は更にカッと開かれ、小さかった瞳孔が更に小さくなり、目の両端が避けたようになった。ヘキは恐怖を覚えその場から脱兎の如く逃げ出して、家の者を探し回った。     
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