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十三
冷たい感覚が桜太の意識を呼び戻す。何か硬い物にもたれかかった桜太の頬を流れる水が撫でる。
桜太は肺一杯に空気を吸い込む。急に大量の空気を吸い込んだせいでむせかえってしまった。
確か自分は沈んでいく桜花の中で意識を失ったはずだ。……助かったのだろうか?
桜太はそっと目を開いた。桜太がいたのは、あの世でも海でもなく、自宅の浴室だった。
「……夢……?」
一蔵と過ごした一年近い時間は、桜太の頭が作り出した幻だったのだろうか?
だが、それならそれでいい。もしそうなら、大勢の特攻隊員の命を無駄にした罪も幻になるのだから……。
ふと、浴槽の縁の置いてあるカミソリが目に入った。三本セットのはずだったが、黄色と水色のカミソリしかない。自殺に使ったピンク色のカミソリが見当たらなかった。
「……自殺?」
桜太はハッとして、自分の左手首に視線を落とし、息を飲んだ。手首には傷一つ無かったが、桜太を驚かせたのは別のものだった。
目に入ったのは、自殺したときに着ていたオレンジ色のパーカーではなく、カーキ色の袖だった。
「夢じゃなかったんだ……」
桜花が海に沈んでいく中で、どうやら桜太は元の時代に戻ってきたようだ。
あの戦いでどれだけの人の期待を裏切り、どれだけの命を無駄にしたのだろう。それなのに自分は生き残ってしまった。
桜太はカミソリを手に取った。
――本当に死ぬべきは自分だったのだろう。
桜太は浴室から出ると、洗面台の横のゴミ箱に二本のカミソリを捨て、鏡を見た。
鏡には一蔵にそっくりな桜太の顔が映っている。
桜太は決して許されることのない罪深いことをした。だが、今は死にたくない――いや、死んではいけないと思った。
昭和の時代にいき、戦争を経験して、桜太は「必死」という言葉の意味を知った。一蔵との出会いが空っぽだった桜太を変えた。
――幸せになる。
漠然としているが、これが生きるための目的なのかもしれない。
「ごめんなさい……でも、今度は必死に生きるから……」
桜太がそう呟くと、鏡の中で一蔵が悲しげに笑った。
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